昨日編集長が、一昨日の私のつぶやきについて何やら書いていたようです。ネタの多重利用を目論んでいる訳ではありませんが、一応説明すべき事は説明しようと思います。私は自分の体験や感情についての説明や答えを辞書の中に求めたことはありません。新明解国語辞典に限らず、国語辞典や漢和辞典は私にとっては言葉の図鑑のようなもので、「何か面白いものはないだろうか」という気持ちでパラパラとめくって読んでいたという記憶があります。
何かがあってから国語辞典を開いたのではなくて、何かを探す為に辞典を開いていた訳です。自分の感情の処理や、困難の対応に悩み、何か答えがないだろうかと開いてきたのは小説などです。特にモンテーニュのエセー(随想録)は、時に触れ処方箋を探す為に繙きました。そこにあるのは創造的な新たな解法ではありません。古代から人間は同じ悩みと過ちを繰り返してきたという事実を納得させられるだけです。しかしそのことが心に安定をもたらし、自ら前進することを可能にします。いずれにしろ活字というものは、様々な人類の叡智を蓄えたもので、本当にありがたいものだと思います。