対話型AIのChatGPTの性能は凄まじいものがあります。その性能があまりにもいいので、一部のメディアでは簡単な記事はChatGPTに書かせたり、或いはアメリカの弁護士試験や医師試験をChatGPTはほぼ及第点を取った、などとも報道されています。その他にも、アメリカでは医師が難しい症例を解明する手掛かりに、ChatGPTと議論する、なんてことを実践しているケースもあるようです。この最後の用法は、極めて興味深いです。これは医師に限らず、あらゆる業界のあらゆる職種の人が、議論の相手、話し相手としてChatGPTを活用できることを示唆しています。エンジニアがプログラミングする際にも、いい相談相手になるかも知れません。

しかしこれは同時に、今まで人前で自分の考えを説明して、それに対する反応を得て、時に説明の仕方、表現の仕方に様々な配慮をしたり、或いは相手の反応で恥ずかしい思いをしたり、或いは嬉しかったり、そういう人間の間の、それは即ち社会での感情を持った当然のやり取りが、機械との無機質なやり取りに置き換わって行くことも意味しています。これは人間社会にどのような影響を与えていくでしょうか?乱暴に、極めて端的に表現すると、「社会性がなくなっていく」ことに繋がりかねないでしょうか?

このことは、もしかしたら回転寿司店などでのトンデモ映像のSNS拡散が続くこととも同根の問題を有しているかも知れないように思えます。バカなことを子供は昔もした。私もずいぶんバカな、非常識な、悪いことを、子供の時はしたこともあります。しかしそれは人前では敢えて云わなかった。もし万一人前で話すなら、それ相応の説明の仕方や云い回しに工夫と配慮をした。そしてそのことが、話さなくても予めフィードバックとなって頭の中で想像され、、自らの行動にも自制が掛かった。或いは話すと、大勢に話す前に先ずは身近な数人に話した時点でフィードバックが得られ、あぁこれはやってはいけないことなんだ、と分かった。それが今は、いきなり100万人相手にSNSで発信できてしまうので、早い小さいフィードバック、想像、自制、というプロセスがなく、気が付いた時には社会的な炎上となっているのでしょう。

AIやSNSの発展は、社会性という観点で、注意深く考えていかねばならない課題が多くあるように思います。