「殆ど全ての提案の先行きは不透明」

これはWTO(世界貿易機関)交渉に参加する日本政府実務担当者がもらした言葉である。自由貿易に背を向けた米国のトランプ前大統領が去り、バイデン米大統領が就任したことを多くの人々は「自由貿易とグローバリズムの復活」と評価しているかもしれない。

しかし2021年の11月30日から開催予定のMC12(第12回WTO閣僚会議)に向けたWTO交渉を見る限りそのような評価はあてはまらない。以下、最近のWTO交渉とその端々に垣間見えるバイデン米政権の思惑をまとめてみた。

ルール策定機能の低下に直面するWTO

WTOはルール作りにおいて全会一致が原則だ。しかし21世紀に入ってから新興国のプレゼンスが高まった結果、先進国と新興国の対立が深まり、全加盟国を拘束するようなルールを策定する機能は低下した。

時を同じくして供給網の国際化が進展したため、それに必要なルールを求める各国は停滞するWTO交渉を尻目に利害の一致する2国間・多国間によるFTA(Free Trade Agreement:自由貿易協定)創設に邁進した。日本も参加するCPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)はその代表だ。

このような状況の打開策として期待されているのが、WTOの例外措置である複数国間協定(協定に合意した加盟国だけが協定の拘束を受ける)だ。そして現在進行中の複数国間協定候補として最も注目されているのがいわゆる「電子商取引交渉」だ。

本交渉にはWTO加盟国164ヶ国のうち現在86ヶ国が参加しており、WTOのルール策定機能の回復を測る試金石とされている。しかし中国の「データの国際流通禁止」論と米国が主張する「データの国際流通は自由」論は鋭く対立し、EUも個人情報の国際流通には厳しいスタンスで臨んでいる。日本政府実務担当者も「MC12での合意は困難」とみている。

7月に開催された漁業補助金を巡るWTO閣僚級会合も、日本政府実務担当者は「ンゴジ・オコンジョ=イウェアラWTO事務局長就任に対する期待感やご祝儀相場が終わり、WTO交渉の現実が露呈した」と酷評している。またこの交渉の中で米国は「漁船で強制労働が行われている場合には補助金を禁止する」としており、米国がこの問題を人権やa worker-centric trade policy(労働者中心の通商政策=バイデン米政権の通商政策)と結びつけている点は注目に値する。

紛争処理機能の停止も課題に

WTOの紛争処理手続きはパネルと上級委員会という二層構造になっており、パネルがいわば第一審であるのに対して上級委員会が第二審(上訴審)であり、パネル及び上級委員会の報告書を紛争解決機関(DSB)が採択すると、これがほぼ自動的にWTOの決定となる。

しかし長期にわたって上級委員会が米国の意に沿わない判決を繰り返した結果、米国は上級委員会の欠員補充(全加盟国の賛同が必要)を拒否し、上級委員会は2019年末に定員(審議、報告書作成には最低3名の委員が必要)割れによりその機能を停止した。現在、上級委員会の在籍委員はゼロとなっている。

果たして今後どのようにWTOの紛争処理機能が回復されるのか、日本政府実務担当者は異口同音に「米国の提案待ち」と言う。人権やa worker-centric trade policyを標榜するバイデン米政権がどのような改革案を提示するのか、あるいはトランプ前政権の頃のように「無視」を決め込むのか、いずれにせよ自由貿易とグローバリズムの復活はいまだ視野に入っていないというのが実情だ。

因みにオコンジョWTO事務局長は自身の著書『Reforming the Unreformable:Lessons from Nigeria』で、改革のコツとして民間人や幅広い関係者の関与を強調している。紛争処理機能の回復についても、その実利を得る民間人が声を上げることが国家に対する圧力となる。具体的にはWTO上級委員を経験した米国人有識者などが米政府に提言する、といった方法が紛争処理機能回復の打開策になるのではないだろうか。

 

コラム執筆:榎本裕洋/丸紅株式会社 丸紅経済研究所