香港に「界限街」(Boundary Street)という名の通りがある。かつてこの地が英領と清の境界線であったことに由来する。翻って近い将来、香港ドルが世界の通貨覇権を巡るせめぎあいの最前線になると見る向きもあるだろう。為替相場を米ドルに固定する「ドルペッグ制」を導入する世界的にも稀有な通貨・香港ドルから、今後の通貨覇権の行方を考えてみたい(※1)。

ドルペッグ制導入から40年

香港が国際金融都市としての地位を確立した要因の1つに、香港ドルの安定性が挙げられるだろう。1983年、香港返還を巡る英中交渉の進展が将来不安を引き起こし、香港ドルの相場が暴落した。

これを受けて、同年10月に1米ドル=7.8香港ドルとする固定相場制が導入された。2005年に1米ドル=7.75~7.85香港ドルの変動幅が許容されたものの、2023年10月現在に至るまで40年にわたり香港ドルのドルペッグ制は維持されている。

【図表1】香港ドルの対米ドル為替相場(1989年~2023年)
出所:CEICより丸紅経済研究所作成

かつてはタイバーツをはじめ、アジアの諸通貨はドルペッグ制を採用していた。ところが1997年に始まったアジア通貨危機で、各国当局が自国通貨を買い支え切れず、相次いで変動相場制に移行した。実際、香港ドルも投機筋からの空売り攻勢を仕掛けられていた。

しかし香港ドルは他通貨とは異なり、通貨発行量を米ドル保有量に裏付ける「カレンシーボード制」を取っており、為替介入の原資となる外貨準備高を潤沢に保有していたため、切り崩しは失敗に終わった(※2)。

香港ドルは持続可能か

米ドルが利上げ局面に入った2022年3月以降、香港ドルは対米ドル相場で下落し、変動幅の下限である1米ドル=7.85香港ドル付近に張り付いている。また、急ピッチで利上げが進む米ドルと香港ドルの金利差が拡大した際には、アジア通貨危機で見られたような、より安価な香港ドルで調達した資金を米ドルに交換して運用益を稼ぐ「キャリートレード」が活発化した。香港の中央銀行に当たる香港金融管理局(HKMA)はドルペッグ制を維持するため、為替介入や金利操作を実施している。

【図表2】香港のマネタリーベースと外貨準備高(1998年~2023年)
出所:CEICより丸紅経済研究所作成
【図表3】米ドルと香港ドルの借入金利(2008年~2023年)
出所:CEICより丸紅経済研究所作成
(※)2023年6月公表分まで

他方で、香港経済が低迷し、不動産市況が悪化する中で、米国に追従する金利操作は矛盾もはらむ。HKMAのエディー・ユー(余偉文)総裁は、ドルペッグ制導入40周年を記念した寄稿文において、高金利の痛みに触れつつも、貿易依存度の高い香港では輸入コストの低下に繋がる他、香港人の海外旅行や留学の際の利点を列挙し、ドルペッグ制には長所と短所の両側面があるとの認識を示した。また同総裁は「(ドルペッグ制は)通貨と金融の安定の礎だ。変更する意図も必要もない」と強調した。

香港ドルと人民元との関わり

香港が中国経済と密接な繋がりを有するにつれ、香港ドルは人民元との関係にも注意を払う必要が出てきている。すでに香港は世界最大のオフショア人民元市場としての役割を担っている(※3)。
前述のとおりドルペッグ制の維持を表明している香港当局が望むか否かに関わらず、今後あり得る他の選択肢としては以下が考えられるだろう。

【図表4】香港ドルをめぐる今後のシナリオ
出所:各種報道より丸紅経済研究所作成

まずは、より柔軟性の高い通貨制度(管理フロート制を含む変動相場制など)への移行だ。通貨に下落圧力がかかった場合、引き続き為替介入は必要になるが、参照レートを操作することで、より実態に合った為替レートに近付けることができ、介入負担も軽減できる。

次に貿易ウェイトなどにより複数通貨のバスケットを構成し、その指数に連動させる通貨バスケット制への移行だ。人民元も2005年に事実上のドルペッグ制から通貨バスケット制に切り替えている。また、人民元単独のペッグ制への移行も考えられる。ただし、香港ドルの発行に人民元の保有を裏付ける場合、現有する米ドルの扱いが新たな議論を呼び起こしそうだ。

通貨覇権を巡る試金石となるか

さらに究極的には、人民元の国際化が進み、香港市場を経由した資本取引の必要性が薄まれば、香港ドルの役割も一段と低下し、人民元への切り替えに議論が及ぶ可能性もある。ただし、香港ドルは一国二制度の象徴であり、また人民元が国際通貨になる上では、いわゆる「国際金融のトリレンマ問題」(※4)に直面することが確実である。ハードルの高い選択肢を取るかは、政治要因が左右するところも大きいだろう。

米ドルの基軸通貨としての役割は健在であるものの、世界の多くの通貨は大なり小なり米ドル依存の度合を緩めてきた。残り数少ないドルペッグ制を維持する香港ドルの行方が、米中関係の中で今後の通貨覇権の行方を占うものだとしたら、その動向は注意して見ていく必要があると言えるだろう。

(※1)歴史的に香港ドルは銀本位制や英ポンド本位制を採用してきた。ドルペッグ制を導入する通貨は他に、サウジアラビア・リヤル、UAEディルハム、カタール・リヤルなどがある。
(※2)投機筋が香港ドル売りを行うと、当局による香港ドル買いが発動し、香港ドルの流動量が減少して金利が上がり、調達コストが上昇したことも通貨防衛に成功した要因の1つであった。
(※3)世界のオフショア人民元決済の7割は香港で処理されている。2023年8月末時点で香港の人民元預金は9625億元。
(※4)金融政策の独立性、為替相場の安定、自由な資本移動の3つは同時に満たすことができないとする学説。

 

コラム執筆:菅原 考史/丸紅株式会社 丸紅経済研究所