週末に本屋で、新しい友人を探し求めるように、平積みにされている本を見ていました。今私が一番好きな小説家は、こうやって全く事前の情報なしに本屋さんで出会ったのがきっかけなものですから、柳の下にどじょうが二匹ではありませんが、よくこのように、まるで通りで人の物色をするように、本屋さんでぷらぷらします。
今回手に取ったのは爆笑問題・太田光さんの「文明の子」。出たばかりの小説で、まだ読み始めたばかりですが、中々面白い。昔懐かしい星新一さんのボッコちゃんを彷彿とさせるような小説です。但しボッコちゃんは1958年発表、なんと54年前の作品ですから、星新一さんの想像力には脱帽するしかありません。しかし私が気になるのはその点ではなく、小説を書く人は一体どのような精神構造をしているのかということです。
太田光さんはコメディアンですが、あのような仕事をしながら並行して頭の中では小説のねたを考えているのでしょうか。小説はねただけが重要なのではなく、もちろん表現方法や細かい言葉の選び方、筆致がとても重要です。そしてそのような中で表現される、話しぶりと書きぶりが大きく違う小説家の方は多くいます。何故でしょう?頭の中に、全く別のひとりがいるのでしょうか?
私は同じ人が書いたものでも、エッセイよりも小説が好きです。それはエッセイは本人と同じ人格が滲み出ているのですが、それだけに逆に隠している部分があるようでもあり、一方小説は別人格であるが故に、逆にそのひとのたちや考え方が、自由に垣間見られる気がして、そこが楽しいのだと思います。「文明の子」も、そんな考えを持ちながら、楽しんで読みたいと思います。