昨晩、凡そ5年ぶりに、昔よく行った居酒屋を訪れました。居酒屋風小料理屋、もしくは小料理屋風居酒屋とでも云うべき、こぢんまりとしたいい店です。念の為予め電話を掛けると、聞き慣れた声がしました。店はまだある。親爺さん(板前さん)も変わっていない。「もう数年も行ってないのですが、変わってないですよね?」と、若干意味不明の質問をすると、電話の向こうで少し戸惑いながら「はい。変わってないと思いますが。」との返事でした。実際に店に行ってみると、その佇まいも、店の中の雰囲気も、靴を脱いで下駄箱にしまって上がる方式なども、全て昔のままでした。扱っているお酒の種類・傾向も同じ、メニューの書き方も同じ、作ってくれるものも同じ、調理場の道具も同じ。道具は綺麗に拭かれ、磨かれていて、古さを全く見せません。壁も冷蔵庫も綺麗で、全てが5年前と同じです。当然と云うか、料理の味も同じ、親爺さんの声、喋り方、話す内容の傾向も同じでした。

タイムスリップしたように全てが昔のままの中で、ひとつだけ違うものがありました。しかも大幅に。
親爺さんが、めっきり歳を取っていたのです。店も、食べ物も、道具も、雰囲気さえも変わらない中で、店の主だけが大きく変わっていました。
ふと店の奥を見ると、かつては他の客で賑わっていた小上がりが、明かりを落として暗く静まっていました。何も変わっていないように見えた店は、実は老化していたのです。殆どのものはかつてと同じ出で立ちをしていましたが、実は確実に老化していたのです。そしてそれは店の主だけでなく、カウンターを越えて客席に座っていた私も同じでしょう。

業平は、『月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして』と詠いましたが、違う見方をすると、もっとも変化するのは自分自身です。最初は随分変わって見えた親爺さんは、暫くすると違和感が薄れていきました。逆もまた真なり。5年の変化ですら、ちょっとすると目が慣れてしまうほどですから、毎日見ている自分の変化には、自分自身では決して気付かないでしょう。変化は否定する必要もありませんが、認識・自覚はすべきでしょう。5年ぶりの親爺さんとの再会は、5年ぶりの自分との再会でもありました。