◆今日は犀星忌。詩人・室生犀星が亡くなった日である。室生犀星は私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出された。この辛い出生の事実が彼の作品に後々まで影響を及ぼすことになった。

◆テレビのワイドショーでは、京都の紅茶王の遺産を巡って、娘が起こした訴訟が話題になっている。自分が婚外子であるばかりに不当な扱いを受けているというのだ。法改正により、今は婚外子であっても法定相続分は嫡出子と同じになった。最終的には法に従った正しい遺産相続がされると思うが、当人はどうも不服らしい。「正当な扱いをしてほしいだけ」というが、「結局カネ目当てじゃないか」というのがおおかたの世間の見方だろう。

◆テレビ桟敷は芝居やスポーツに限らない。ワイドショーなどもそのひとつ。訴訟を起こした女性のファッションが派手だったせいもあって格好のネタになっている。桟敷席に座った面々は誰もが「行列ができる法律相談所」の回答者になった気分で、ああでもない、こうでもないと言っていることだろう。

◆インターネットが普及した今は誰もが評論家になる時代である。ひと昔前は、ニュースなどに対する一般人のコメントを目にする機会はまれであった(せいぜい新聞の投書欄くらい)。それが今やネット空間ではありとあらゆることに対して無数の言説が - 本格的な評論から批評とはとても呼べないものまで - 飛び交っている。

◆無意識のうちに自分もその一部となっていた。ツイッターでみかけた、ある詩人の作品に対して、「これは詩ではない」とツイートしたのだ。すぐにご本人から返信がきた。「詩ではないとしたら何だと思いますか?」恐縮して謝ると、「言われ慣れてますから。」 詩人が寛大な心の持ち主で救われたが、なんとも軽率な言動をしたものである。自分もさんざんネットの向こうにいる匿名の読者から心無いことを言われて、怒ったり傷ついたりしてきたはずなのに。株高に浮かれていた - では、言い訳にもならない。中原中也賞を受賞したその詩人からは、もうひとつ宿題をもらっている。「あなたの詩の定義から外れたわけでしょう?あなたの詩の定義はなんですか?」

◆今日は与謝野鉄幹の命日でもある。ちょうど1週間後の4月2日は連翹忌(れんぎょうき)。高村光太郎の忌日である。春は多くの詩人が逝った季節だ。この春、詩についてあれこれ考えてみようと思う。え?詩について考えるより、明日の株価について考えろって?そういうひとにはこの詩をどうぞ。

けふという日/そんな日があったか知らと/どんなにけふが華やかな日であっても/人びとはそう言ってわすれて行く/けふの去るのを停めることが出来ない/けふ一日だけでも好く生きなければならない(室生犀星「けふという日」)

マネックス証券 チーフ・ストラテジスト 広木 隆