◆木犀のいい香りが漂ってくる。自宅周辺に咲く花の色は白。ギンモクセイである。オレンジ色の花をつけるキンモクセイより、香りは強くないが、その控えめな香りはとても上品に感じる。春には沈丁花が香り、秋には木犀が香る。四季のある日本に生まれ暮らしていることに感謝する。われわれが些末なことで悩み、諍い、嘆いていても、季節はちゃんと廻り、四季折々の花が咲く。自然は偉大であり人智の到底及ぶところではない。
◆「学問の限界」。御嶽山の噴火について、火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長はそう述べた。記者会見で藤井氏は「マグマ噴火と比べて今回のような水蒸気噴火を予知することは非常に難しい。突発的に起こることが多く、事前に明確に把握することは困難で現在の学問の限界だ」と語った。科学が万能でないことはもとより承知のうえだが、東京大学名誉教授で日本を代表する地球科学者である藤井氏の言葉とは思えない。科学者たるもの、限界を知ってなお、その先への探求心を失ってほしくない。
◆「科学」というと物理や天文・気象など自然を対象とした「自然科学」=サイエンスをイメージするが、「自然科学」とは別に「人文科学」という分野もある。社会・経済・歴史などがこれに含まれる。すなわち人間の営みを研究する学問だ。自然界の摂理を解き明かそうという自然科学に比べ、所詮は小賢しい人間界の話だ、人文科学のほうがはるかにやさしい - ふつうはそう思うかもしれない。HEC経営大学院教授のイツァーク・ギルボアは著書『合理的選択』のなかで、マクロ経済学、金融、政治学、社会学等では多くの因果関係がいまだ特定できていないと述べている。要するに人文科学の分野でも何もわかっていないに等しいのである。
◆自然の理(ことわり)も人の世の中も、右も左もわからないことだらけ。まさに「一寸先は闇」である。しかし、本当にそうだろうか。闇を照らすランプはないか。一寸というのは3センチメートル。たかが3センチである。100メートル先を照らせといっても無理かもしれないが、たかが3センチ先なら照らせるのではないか。それを可能にするのが「科学」の力だろう。闇を照らす一筋の光を追い求めること、それが「学問」というものであろう。軽々に「学問の限界」などと述べてはいけない。東大名誉教授に対して「お言葉ではありますが」。ギンモクセイのように控えめでいることが、できない性分なもので恐縮です。
マネックス証券 チーフ・ストラテジスト 広木 隆