楽観から悲観に急転換した1998年

2月24日、ウクライナ情勢の緊迫化を受けて、ロシア通貨のルーブルや株式相場が急落した。ところで、歴史的に最も有名な「ルーブル・ショック」と言えば、1998年の出来事だろう。結果的に、金融市場の楽観論を悲観論に急転換させるきっかけとなったのが、この1998年の「ルーブル・ショック」だった。

始まりは、1998年8月のロシア政府による通貨の切り下げだった。これが、大手ヘッジファンドに巨額の損失をもたらしたことがその後明らかになり、金融危機の様相が拡大した。そしてその金融危機は、為替市場にも大混乱をもたらした。

当時、為替相場では大幅な米ドル高・円安が展開していた。1998年8月には、1米ドル=147円まで米ドル/円は上昇した。こういった中で、上述のように金融危機といったリスクオフ機運が急拡大したことから、米ドル/円も一転して急落に向かった。

ただ、それまで大幅な米ドル高・円安が展開する中で、当然のようにマーケットは米ドル買いのポジションに大きく傾斜していたと見られた。急な米ドル安への転換に対応できず、高値での米ドル買いポジションの含み損が急拡大したと見られた。そのことから、マーケットでは含み損の拡大に耐え切れなくなって米ドルの「投げ売り」の動きが出ることが注目されるようになった。

そういった中で、米ドル/円は1998年10月上旬、ほんの数日で30円近くもの大暴落が起きた。8月に150円に迫った米ドル/円は、10月には110円も割れそうな動きとなったのだった。

株高から株安へ、円安から円高へ、そんな金融市場の急転換が起こった1998年。そこから得られる教訓は幾つかあるだろう。その1つは、上述の為替相場のケースに該当しそうだが、大幅に長くワンサイドで展開した相場が急転換した場合、それに対応できず大きな損失を抱える可能性があるということだ。この場合、その損切りが逆サイドに新たな大相場をもたらす可能性もある。

1998年8月のルーブル切り下げは、それ自体の金融市場へのインパクトは限定的だったが、それにより大手ヘッジファンドが巨額の損失を被ったことが、その後の金融危機を招いたと考えられる。その意味では、マーケットの急変が、どこかで大きな損失をもたらしている可能性には注意が必要だろう。

1998年8月の「ルーブル・ショック」をきっかけとした金融危機が起こる前、今から振り返ると、危機を予告したかのような発言があった。当時のFRB(米連邦準備制度理事会)議長、アラン・グリーンスパン氏による「米国だけが繁栄のオアシスでいられるのか」といった発言がそれだ。

ある意味ではこの発言通り、金融危機が到来し、米国も「繁栄のオアシス」でいられないかもしれない状況となった時、FRBの対応は早かった。1998年9~11月にかけて3ヶ月連続で利下げを行う中、株価は底入れ、金融危機も終息に向かった。当時の有力経済紙が、有名な宅配便を文字って「FEDエクスプレス」と評したこの電光石火の対応は、事前の想定があったからこそ出来たのではないか。