経済危機で日本からの資本逃避も懸念された1998年
1990年代半ば、米ドル/円は1米ドル=100円を超える円高、「超円高」が展開していた。過去の経験で説明が難しい循環的な為替相場の動きについて、「構造論」での説明が増えるのは当時も最近も似ているだろう。ところがこの時、「構造的円高」なのでもう円安にはならないと思われたところで起こったのが、それとは正反対の「止まらない円安」だった(図表参照)。
1997年11月、当時「四大証券」とされた中の1つ、山一證券が破綻した。この後、大手の銀行、証券など金融機関の経営破綻が相次ぐところとなり、日本は経済危機、金融危機に陥っているとの見方が広がった。そうした中で、「構造的円高」どころか、今度は正反対の止まらない円安、「構造的円安」論が拡大した。
日本の単独介入で止まらなかった円安
円高から円安へ急転換する為替相場に対して、日本の通貨当局はまさに山一證券破綻という象徴的な出来事があった1997年11月、1米ドル=130円手前の水準から円安阻止の米ドル売り・円買い介入に出動した。ところが円安は止まらず、約半年後の1998年春には140円を超えるところとなった。
当時の日本の通貨政策責任者である財務官は、「超円高」の反転で活躍し、「ミスター円」の称号を与えられた異色官僚、榊原英資氏だった。榊原財務官は、1998年4月、当時としては異例の大規模な米ドル売り・円買い介入を行った。ところが、それでも円安は止まらなかった。こうした中で、円安の歯止めは、自国通貨の米ドル売り介入が事実上無制限に可能な米国の協調介入参加以外ない、との見方になっていった。
日本の経済危機を受けた円安を止める日米協調の為替介入は、1998年6月に実現した。当時の米クリントン政権は、大統領の訪中とのバーター取引で日本からの円安阻止介入への協力要請を受け入れたとの解説が専らだった。
同じ米ドル売り介入でも、米国が望んだ場合と、他通貨安阻止の場合では関わり方は全く違う。前者の代表例は、いわゆる米国の経常・財政「双子赤字」を受けて米ドル高是正に取り組んだ1985年のプラザ合意だろう。これに対して1998年の場合は、あくまでも日本からの円安阻止要請に対して、米政権が大統領の訪中容認という自身のメリットを確認して対応したものだったのだろう。
日米協調介入で10円以上の円高に=ただ2ヶ月後には円安値更新
米国の米ドル売り協調介入参加が、市場の米ドル買い・円売りに脅威となるのは、米国が本気になったら、自国通貨の米ドル売りは事実上無制限に行うことが可能ということ。ただし、それが米国自身の政策目的ではなく、あくまでも貿易相手国の通貨安、つまり円安阻止への協力になると、米国自身へのメリットも検討した上で基本的には限定的な協力にとどまるのが当然だろう。
1998年6月の日米協調米ドル売り介入はまさにそうした結果だったのではないか。当時としては、「サプライズ」な日米協調介入を受けて米ドル/円は約10円も米ドル安・円高に戻したものの、その後約2ヶ月で協調介入出動水準より米ドル高・円安に戻すところとなった。その意味では、日米協調介入は、円安阻止の「切り札」とはならなかったわけだ。
このように「切り札」が期待された日米協調介入でも円安に歯止めがかからなかったことから、もう円安は止まらないという絶望的な「構造的円安」論はいよいよ拍車がかかり、書店の平積みには「円安200円時代」のような本が溢れるようになった。ただ現実的には、米ドル高・円安は150円すら超えることなく、むしろ100円に向かう米ドル安・円高への急反転が起こった。それはなぜだろうか。
「絶望的円安」を反転させたのは米ドルの「自滅」だった
この年の8月、ロシアは自国通貨のルーブル切り下げを発表した。「ルーブル・ショック」と呼ばれたものだ。これを受けて米大手ヘッジファンド、LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)の巨額損失が表面化することとなった。
この「ヘッジファンド危機」をきっかけに米国株が急落に向かうと、FRB(米連邦準備制度理事会)は緊急利下げに転じた。こうした中で日米金利差(米ドル優位・円劣位)も急縮小に向かうと、止まらない円安「構造的円安」とされた動きも円高へ急転換していった。
1998年の円安は、株安と同時進行したことから、いかにも日本からのキャピタル・フライト(資本逃避)も懸念もされる動きだった。ただ、その円安も止まり、円高への急反転をもたらしたのは、日米協調介入ではなく、米経済の変調を受けた米ドル安への転換、つまり米ドルの「自滅」だったのである。
