1985年9月「プラザ合意」
プラザ合意が発表される前、米ドル/円は250円前後での推移が続いていた。ところが、実質的な米ドル切り下げ策であるこのプラザ合意の発表を受け、日本、アメリカ、西ドイツ、イギリス、フランスで構成されたG5の通貨当局が一斉に米ドル売り・自国通貨買いの協調介入に出動すると一気に米ドルは急落に向かった。
この米ドル売り協調介入が異例だったのは、下がる米ドルを当局が追いかける形で米ドル売り介入を続けたことだった。まさに米ドル高阻止ではなく、米ドル高の是正、米ドル安誘導を協調介入により実行したものだったわけだ。こうした中で、米ドル/円はわずか1週間で210円も割れそうなところまで下落し、さらに年末には200円の大台も割れる展開となった(図表参照)。
一度動き出した米ドルの下落は、すでに通貨当局が米ドル売り介入を止めた後も止まらず、1986年になると、200円から一気に150円割れに向かう動きとなった。それは明らかに、プラザ合意が想定した米ドル安誘導を超えた動きだった。
1987年2月「ルーブル合意」
この頃はイタリアとカナダを追加しG7となっていた。G7はすでに米ドルは十分下落したとして、米ドル安値圏での安定を目指すプラザ合意の軌道修正に動いた。これが1987年2月22日のルーブル合意だった。名前の由来は会議がパリのルーブル宮殿で開かれたことだった。
プラザ合意の実質的な米ドル安誘導の目標水準が明らかにされなかったことと同様に、ルーブル合意が安定を目指した米ドル安値圏も具体的には明らかにされなかった。ただしこの安定目標レンジは、1米ドル=150円±2.5%、つまり146~154円程度の狭いものらしいとの見方が一部で囁かれるようになった。それは「レファレンス・レンジ(参考相場圏)」と呼ばれた。
ただ1年で50円も下落してきた米ドルを、10円以内の狭いレンジで安定させるためには、為替介入だけでなく金融政策の協力も不可欠になる。このルーブル合意はすぐに破綻し、G7は中心レートを145円に修正した上で±2.5%の範囲内での安定を目指す「新ルーブル合意」を決めた。
1987年10月「ブラックマンデー」=そして同年12月「クリスマス合意」
しかし米ドルの下落はそれでも止まらなかった。そこで当時のベーカー米財務長官は、米ドル安・西独マルク高を止めるべく、「新ルーブル合意」を根拠に西独の中央銀行、ブンデスバンク(BUBA)に対して利下げを要請した。
しかし2度の世界大戦敗戦で過酷なインフレに見舞われた経験から、「世界一のインフレ・ファイター」とされたBUBAは、物価安定を損なうリスクのあるマルク高阻止を目的としたこの利下げ要請を拒絶。これに対してベーカー長官がさらなるBUBAへの利下げ圧力を目的に米ドル安・西独マルク高誘導に動くと、金融マーケットはそれをG7協調体制の崩壊と受け止めた。そしてそれは間もなく、1987年10月19日、NY発世界同時株大暴落、「ブラックマンデー」を引き起こしたとされたのだった。
ブラックマンデーから間もなく、米ドル下落が本格的に再燃すると、いよいよ米ドル下落は歯止めがかからない様相となった。これに対して、1987年12月、米議会はクリスマス休暇返上で財政赤字削減策を決定し、それに合わせてG7は「これ以上の米ドル下落は望まない」とのクリスマス合意を発表するとともにG7協調米ドル買い介入に出動、ようやくプラザ合意から始まった米ドルの大暴落劇は幕をおろすところとなった。
