◆昔、一緒に暮らしていた男は「生きているものの中で、人間だけが嫌いなんだ」というのが口癖だった。小池真理子の新刊『千日のマリア』に収められている 「常夜」という話である。読んだ時、僕は「ああ、俺と同じだ」と思った。僕も生きものの中で、人間だけが嫌いである。こどもの頃はずっと犬を飼っていた。 今は金魚と猫を飼っている。その猫の額ほどのベランダでプランターに草花を植えている。生き物は好きだ。嘘をつかないからである。人間は嫌いである。嘘を つくからだ。
◆サイトの書き込みが金融商品取引法違反、風説の流布に当たるとして証券取引等監視委員会は「般若の会」の関係先を先週、強制調査した。風説の流布とは、 株価を変動させる目的で虚偽の情報を流すことである。メディアでは「70歳代の男性」としか書かれていないが、会の代表はかつて兜町の風雲児としてその名 を響かせた大物仕手筋、AK氏であることは市場関係者なら誰もが知っている。
◆後を絶たない未公開株や社債を騙った詐欺事件の多くは、詐欺師が被害者に直接コンタクトして勧誘する。一方、「仕手」はこちらから仕手戦に参入しない限 り被害はない。短期間で急騰する銘柄をみると「大儲けできそうだ」という欲がわくのが人情というもの。そうした射幸心を煽るのが仕手筋の手口だ。「仕手」 が不正行為であるならば、それに参加する一般投資家も片棒を担いでいることになる。ネズミ講と同じ構図である。
◆金融市場を舞台にした詐欺、不正事件は洋の東西を問わず、昔も今も起きている。おそらく今後もなくなることはあるまい。いや、金融市場だけではない。先 週、大手ゴムメーカーが製造・販売した免震装置のゴム製部品について、不良品の出荷やデータの偽装があったことが発覚した。こういう偽装、虚偽を挙げれば きりがない。そういえば世相を表す「今年の漢字」、昨年は「税」が選ばれたが「嘘」も本命視されていた。
◆作家・中島らもは、「噛まれた夜も痛いけど、噛んだ夜も痛いのだ」と言った。それに倣えば、「嘘をつかれた夜もつらいけど、ついた夜もつらいのだ」。僕 自身、何度も嘘をつかれ、そして何度も嘘をついてきた。嘘をつくのもつかれるのもつらいが、人は嘘にまみれて生きていく。だからこそ、奇跡のように出会う 誠や真実がこのうえなく美しく、愛おしく思えるのだ。人間は総じて嫌いだが、ごく稀に熱烈に好きになるのは、そういうわけである。
マネックス証券 チーフ・ストラテジスト 広木 隆