ブラックマンデーの苦い教訓
金融政策は、基本的には物価の安定や景気(適切な雇用の維持)対策を目的として行使される。そんな金融政策を為替相場の安定化のために行使が期待されたのは1987年のことだった。
当時は、1985年のプラザ合意を受けた米ドル急落が続いていた。これを主導したG5(先進5ヶ国財務相・中央銀行総裁会議)の頭の中には、米ドルはすでに十分下落しており、安値圏で安定化させる次のフェーズに移ったとの認識が強まっていた。その実現を目指したのが、1987年2月のG7「ルーブル合意」だった。これは、経済政策を総動員して、米ドルの一定のレンジ内での安定化を目指すという考え方だった。
ただ市場の米ドル売り圧力は強く、米ドルは目標レンジを割り込みそうな展開となった。このため当時の米財務長官は、米ドル安・マルク高を阻止するべく、西ドイツに対して金融緩和を要求した。
ただ、二度の世界大戦での敗北により苛烈なインフレに苦しんだ経験から、インフレに対して断固として戦う、「世界一のインフレ・ファイター」となった西ドイツの中央銀行、ブンデスバンクはこの金融緩和要求を拒否した。
これに激怒した米財務省は、米ドル安誘導で、ブンデスバンクに圧力をかけたが、これを金融市場はG7協調の分裂・崩壊と受け止めたことが、1987年10月19日、NY発世界同時株暴落「ブラックマンデー」のトリガーになったとされた。これはまさに、為替のための金融政策行使を巡る対立が、世界的な株大暴落をもたらすきっかけになったエピソードとして、特にセントラルバンカーの間には強い教訓として刻まれることになっただろう。
一方で、同じプラザ合意を受けた米ドル急落相場で、急激な円高を阻止するべく、まさに為替のために金融緩和に動いたと見られたのが日銀だった。この、景気や物価とは違った目的で行われた日銀の金融緩和こそ、1989年にかけての日本経済のバブルをもたらした一因と後に批判されるところとなった。以上のような経緯を経て、金融政策を為替安定化のために使わないということは、同じくセントラルバンカーの頭の中に刻み込まれているのではないか。
為替過敏という金融政策への圧力
先週末、植田日銀総裁のインタビュー記事が報道されると、金融緩和見直しを示唆したとして、「円金利上昇=円高」をもたらした。先週は一時148円近くまで米ドル高・円安が進むところとなっただけに、「真の狙いは円安阻止への支援ではなかったか」との見方もあったようだ。ただ、円安阻止で、金融緩和見直しを早期化した場合、長く目標としてきた日本経済のデフレからの脱却に失敗するリスクとなりかねない。
日本ではかつて、国内の「円高恐怖症」が日銀へのプレッシャーとなり、FRB(米連邦準備制度理事会)などと比べて金融政策の転換が後手に回る、「ビハインド・ザ・カーブ」に陥りやすいとの見方があった。
植田総裁が理事として金融政策の決定に関わった2000年8月のゼロ金利解除は、ITバブル崩壊第二幕のトリガー役になったと批判されているが、これはそもそも当時G7(7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議)で円高懸念が共有された中で、ゼロ金利解除という金融緩和見直しが「後手に回った」ことこそが失敗の本質だったのではないか。
当時は円高、そして現在は円安と為替相場の方向性は反対だが、2000年のゼロ金利解除の当事者の一人でもあった植田総裁は、為替のために金融政策を使うといった過ちを犯す可能性は低いと考えられる。ただ、「金融緩和見直しの示唆の真の目的は円安阻止か」といった見方が浮上すること自体、為替への関心が強い日本では、それが金融政策への圧力になる状況が続いていることを示しているのではないか。