◆アストン・カッチャー主演の傑作映画「バタフライ・エフェクト」が公開されたのは、約10年前。タイトルになっている「バタフライ・エフェクト」とは、初期のわずかな変化が予想もつかない方向へ発展してゆくことで、カオス理論の中核をなすものである。バタフライとは英語で蝶のこと。この効果を説明する喩えとして、「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」や、「アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」などの表現が使われたことから、効果の名称自体にも蝶(バタフライ)の名が付けられた。

◆9月4日付小欄で取り上げた前欧州中央銀行(ECB)総裁、ジャンクロード・トリシェ氏による『私の履歴書』が佳境に入ってきた。今週はサブプライム危機から欧州債務危機に至る過程を、当時の中央銀行総裁の立場から描いていて興味深い。特に危機の端緒となった2007年8月9日のパリバショックに際して、流動性の供給を短時間で決めた英断の舞台裏を叙述した月曜日の回は真に迫るものがあった。トリシェ氏は「バタフライ効果」を例に挙げ、危機の端緒では迅速な決定こそ重要であると述べている。

◆昨日の小欄で、市場は「変わっていないように見えて、変わっているものである。その微小な変化に気付けるか。微小な変化が勝負を分けることもある。急変の前触れとなることもある」と述べたが、まさにこのパリバショックの時の日本株相場がそれに当てはまる。パリバショックとは、サブプライム関連商品の混乱が原因でBNPパリバ傘下のファンドが投資家からの解約を凍結すると発表したことにより、世界のマーケットが一時的にパニックに陥ったことを指す。パリバショックは一般に8月9日とされているが、トリシェ氏の『私の履歴書』を読むと、8月7日にはパリバ傘下のファンドが支払いを止めていたことが分かる。

◆当時の日経平均の動きを振り返ろう。8月8日:107円高で6日ぶり1万7000円台を回復。8月9日:141円高と3日続伸。しかし、この時、すでにパリバショックは起きていたのだ。資本市場で流動性が枯渇し、ECBが緊急策を発動したのは上述の通り、9日の欧州時間の朝、すなわち日本時間の夕方だが、それに先立つ8日から東京株式市場では異変が起きていた。割高なものがさらに買われ急騰する一方で割安なものが極端にたたき売られた。これはのちに「クオンツショック」として一部で語られることになる現象だったが、あまり一般には知られていない。

◆欧米のパニックを知った翌10日になってようやく日経平均は400円を越す急落となった。しかしそれは悲劇の序章に過ぎなかった。市場の混乱は急激な円高となって跳ね返り、翌週後半の3日間で日経平均はなんと1500円余りも暴落したのである。危機の予兆は十分にあった。日経新聞の相場欄は9日の市況をこう伝えている。<「奇妙だ」。取引開始直後から市場関係者は首をひねりっぱなしだった>。この日の商いは急激に膨れ上がり注文件数は東証の処理能力の上限に迫るほどだった。しかし、それにもかかわらず、この異常事態に気付いていたのは一部のヘッジファンド関係者のみであった。この教訓は、日経平均など株価指数だけを見ていては本当に相場を観ていることにならないということである。「木を見て森を見ず」という言葉があるが、「木の葉の揺れを見て、森全体の激震を知る」ということも、時には(10年に一度くらいは)必要である。木の葉を揺らすのは、もちろん、蝶の羽ばたきである。

マネックス証券 チーフ・ストラテジスト 広木 隆