1998年9月の終わり頃、私はニューヨークのホテルの自室でひとりで飲んでいました。当時私がパートナーとしていたゴールドマンサックスを辞めてオンライン証券を創業すべきか、上場が半年後に控えていたゴールドマンに残るべきか、悩んでひとりで飲んでいたのです。酔う中で辿り着いた結論。STAYかGOの二択ならGOだ。そして翌日当時のゴールドマン会長に辞意を伝え、私は帰国し、身辺整理を始めました。

そんな10月の或る日、私にインターネットのいろはを教えてくれたIIJの鈴木さんから携帯に電話がありました。夜の9時過ぎでした。「今、出井さんと飲んでるんだけど、来る?」私はもちろん一目散に飛んでいきました。インターネットという新しいテクノロジーを使って個人の投資体験を変える。そのようなオンライン証券を創ることを考えていた私には大きな課題がありました。プロの金融マンや機関投資家の間では私のことを信じてもらえても、社会の中では無名の私が創る金融機関を、どうやって広く個人に知ってもらえるか?信じてもらえるか?それには、テクノロジーで個人の生活を変えたイメージの強い、かつクリーンなイメージの会社に、私と私のプランを理解してもらって、株主として知名度と信頼を補完してもらうに限ると、そう考え、それならばソニーしかないとそう考えていたのでした。

その考えを知っている鈴木さんが私を呼んでくれた。小料理屋に入っていくと、二人用の小さな正方形の座敷に通されました。そこに鈴木さんと、初対面の出井さんがいました。出井さんは確か、お友達の塩野七生さんが書かれた「マキアヴェッリ語録」を座布団の横に置かれていたと思います。マキアヴェッリを読まれるんだ。ただでさえ、当時世界中で話題の経営者だった出井さんを前に緊張するところ、更に逃げ場がない感じがしました。しかしその小料理屋に向かう車の中で、「出井さんは恐ろしく忙しい方に違いなく、その時間を少しでも無駄にしてはいけない。自分も自分のアイデアも、大きくも小さくもなく、そのままの大きさと形で、分かりやすく正直に簡潔に説明することだけが、最低限自分に出来る礼儀だ」と考えていたので、私のやることは変わりませんでした。

あくまでも淡々と、お世辞も謙遜も修飾もなく、オンライン証券とは何か、何故それが今後大きくなる可能性があるのか、そしてそのビジネスにソニーが関わる意義を、口頭で説明しました。出井さんはじっと聞いていました。いくつか質問されました。その内容は覚えていないのですが、なんで資本市場ビジネスに携わっている訳ではないのに、こんなに速く勘所を掴まえてこんなに要所をついた質問をされるのだろうと驚いたことを覚えています。もう夜の10時過ぎでした。そのあとに出井さんが、ところであなた誰?と聞かれました。それが初めて、私が出井さんに自己紹介をした時でした。その日は、出井さんとお話した時間は全部含めて20分程度だったように思います。

すると数日後、この間は酔っていたし夜だったので夜目遠目笠の内と云うこともある。もう一回聞かせてくれないか、と連絡がありました。早速指定の場所に行くと、それは午前10時頃だったと思いますが、出井さんの目は赤く充血していて(それはその後ソニーのトップをされている間はいつもそうだったのですが)、恐い迫力に満ちていました。そこでもう一回、先日話したのと同じことを簡潔に説明しました。出井さんは目を閉じてじっと聞かれていました。目を開けると当時の社長室長だった吉田さん(現ソニーグループCEO)に携帯で電話をされ、今すぐ松本さんに会いなさいと仰いました。

出井さんは、どこの馬の骨とも分からない若造の話を聞いて、そしてわざわざ確認のためにもう一度聞いて、そして中期計画を策定中で忙しい幹部社員にその若造の話を今聞けと仰ったのです。なんでそんなことが出来るのだろう?出井さんには一切偏見とか先入観がないのだと思います。しかも世界中の賞賛の声の真ん中にいる時でも、それは変わらないのでした。こんな人に私もなりたいです。これが出井さんとの長いお付き合いの始まりでした。