香港市内から地下鉄30分程度の郊外にTsuen Wan(荃灣)がある。この地域は元々工業地帯で1950年代後半から工場が林立していた。しかし、彼の地も人件費と共に地価が上がり、工場は次々と中国本土に移ることとなった。その工場も更には広東省からベトナムなど東南アジアに拠点が移っていると聞く。そして今ではTsuen Wanはマンションやアパートが立ち並ぶ住宅街へと変貌を遂げている。

そのTsuen Wan地区に古い紡績工場をリノベーションした紡績博物館・ファブリック美術館・ショッピングモールの3つを併せ持つ複合施設がある。Centre for Heritage, Arts and Textile、略して「CHAT」と呼ばれている。南豊紡織という会社が1950年代に立てた工場を外観はそのままに、内装を素敵なショッピングモール・紡績工場を再現した博物館、そして織物を使った現代アートの美術館に模様替えしたのだ。

香港の紡績業の歴史を紐解くと、第2次世界大戦以降、中国本土内戦が続くなか1945年から1951年までに年間平均10万人の人々が香港に移り住み、上海などから30以上の紡績会社が移ってきたのが始まりである。

そのうちの1つが、寧波から移転してきた南豊紡織であった。香港で綿糸の製造販売で大成功を納め、「綿糸王」とも呼ばれるようになり、創業家の資産は数千億円とも言われている。

一方、その陰には日本の女工哀史と同様に香港でも女工たちにとって極めて厳しい労働環境が強いられていた現実もある。労働法が整っていなかった時代、1日3交代制、休日もなく、年間の休みは旧正月3日間のみ。しかも、工場内は騒音もひどく健康被害も多かったため、医者が毎日3時に無料検診に来ていたほどだったそうだ。

同社も時代の流れと共に業務環境の改善に努めたものの、香港の人件費・不動産価格高騰の中で、多くの香港の紡績産業は、製造よりもサプライチェーンマネージメントにシフトし、工場を香港以外の場所に移転していった。

同社も例外ではなく、2008年に最後に残った第6工場を閉鎖している。香港全体でも2014年を最後にすべての紡績工場が閉鎖され、67年間の香港の紡績工場の歴史が幕を閉じることになる。香港の紡績のマスプロダクションの時代は終焉を迎え、今は紡績に関する新技術開発やリサイクル事業という21世紀型の紡績産業に転換しているのだ。

ちなみに南豊紡織は社名を南豊グループとし、主要事業部門に不動産開発を掲げ、今では香港有数の不動産デベロッパーに変貌を遂げている。香港の旧空港跡地Kai Tak(啟德)区を高額(246億香港ドル=約3400億円)で落札し、オフィス・マンション・商業の複合施設を開発していることは記憶に新しい。

そんな歴史的背景をもった南豊紡織の最後の工場第6号棟が廃屋のようになっていたのを創業者のChen Din Hwa博士の孫娘であるVanessa Cheung氏が、本来であればマンション等に建て替えるべきところを一族の大反対を押し切って作ったのがCHATという施設なのだ。

一族の肖像ともいえる紡績工場を今に蘇らせる試みをし、建物全体が紡績産業展示の場となった。そして綿糸で作った織物をアートの素材に見立て、一大アートスペースを創造し、その周りをショッピングモールとすることで、CHATは多くの香港市民の憩いの場所として親しまれるようになったのだ。

外観はあくまで60年前に建てられた古い建物だ。筆者も先般訪れる機会に恵まれたが、工場地帯に立つ古い建物があり、「ここかな?」と疑心暗鬼で中に入って「あっ」と驚いた。そこにはすべてが計算されつくした現代建築デザインが施され、3階の吹き抜けには、驚くような大きな芸術作品が展示されている。それを取り囲むお洒落な店舗が並び、ビオワインのグラス売りもしている。そしてVRを使って1960年代の紡績工場を体験できるコーナーもあるという凝りようである。

そして、その全体をプロデュースしているのが日本人キュレーターというのも驚きであり、一方で誇らしく思った。その方の名前は高橋瑞木さんである。六本木ヒルズの森美術館のスタートアップも手がけ、その手腕を買われてチーフキュレーターに指名されたようだ。彼女のお話を聞くだけでも価値のある時間を過ごすことができる。

香港にお住まいの方も観光で訪れた方も、香港の産業史と明日の香港のアートシーンを一度に体験できる施設として是非お勧めしたい。

そして個人的には、今後、米国ハーバード大学でランドスケープデザインを学んだVanessa Cheung氏が、一族の大反対を押し切って自らのアイデンティを確認するかのような施設を作ることに拘わったのは何故なのか?30代で香港の巨大なデベロッパーを率いる同氏に是非一度お会いして直接お話を聞きたいと思っている。

参考出典:CHAT Visitor Guide