米国の追加経済対策がもたらすインフレ

2020年2月中旬から米国債券相場では長期金利が上昇し始め、3月に入ると代表的な金利の指標である米国10年債利回りは、1.60%まで上昇した。米国30年債利回りも上昇を続けて、FRBのインフレターゲットとして意識される2.00%を大きく超えて2.30%近辺まで上昇した。

背景には、バイデン米大統領が、追加経済対策として取りまとめる法案の総額が1.9兆ドル規模になるとの見通しが高まったことにある。実際に、米国下院は同法案を可決、上院でも3月7日に法案を修正して可決した。10日には下院でも再可決されて、バイデン米大統領の署名により成立する見込みである。

これにより米国経済が年央に急ピッチで回復することへの期待が強まり、将来のインフレ期待(懸念)が頭をもたげてきたという状況である。米国の消費者物価指数(1月)は事前の予想を下回っており、足元ではインフレ指標は弱いと言ったほうが良い状況だが、市場にはアクセルを踏みすぎるかもしれないという見方がより強まっているからである。

対立する民主党と共和党の主張

2020年のコロナ禍以来、米国のみならず世界的にも経済学者の間では、新型コロナウイルスによる未曽有のショックの影響で、世界経済は需要が急縮小した後も容易には回復しないだろうという見込みの元、財政による経済対策が大きすぎるなどという批判は見られなかった。

しかし、サマーズ元財務長官は米紙に寄稿し、バイデン米大統領と民主党の提案する経済対策案の規模は、米国経済を未知の領域へのステップへと導き、この30年で目にしなかったようなインフレ圧力を形成しかねないと警告した。

このサマーズ氏の寄稿は、一石を投じるものだった。既に米国経済が成長路線に回帰しつつあり、活性化しようとする段階に今あるのに、1.9兆ドルもの追加策を講じれば、必要とする規模を超えてしまうことを懸念すべきだという指摘は、市場に驚きを与えたに違いない。

これは議会での共和党の主張にも通じるところがある。共和党は財政赤字の規模が拡大することへの懸念ももちろんあるが、最近では経済が底離れをする段階で重点項目を絞って財政出動などを実施すれば、十分に景気浮揚効果は高まるとの主張にシフトしつつある。また、この主張は経済指標が上向く中で一定の説得力をつけつつある。

一方で追加経済対策の検討が進む中、バイデン米大統領をはじめとする民主党の主張は、これに真っ向から対抗している。サマーズ氏に対する主張の論客として取り上げられたのは、クルーグマン博士である。

彼は、規模が大きすぎる追加財政出動への懸念を大げさなものだと一蹴し、新型コロナウイルスにより破壊された経済の再生を戦後の復興になぞらえたパウエルFRB議長の発言を取り上げて、現時点では、需給ギャップの大きさはやはり問題にならないと強調した。

ホワイトハウスもサマーズ氏の見解に対抗する論陣を張り、経済対策が大きすぎるとの懸念を、見当違いな指摘だと批判している。イエレン財務長官は、就任後、発言の機会があるごとに繰り返し、何百万人もの失業者が溢れている現状への危機感を強調して、財政政策で「大きく動く」ことの必要性を唱えて、連邦議会での速やかな判断と行動を訴え続けている。

論客たちの議論は真っ二つに分かれているが、政策の正しさは歴史が証明するとしか言いようがない。問題は、バイデン米政権が更により野心的なインフラ投資の提案を3月目処に取りまとめる方針であると伝えられている点である。

それは、道路や橋、地方のブロードバンド整備など「ニューディール」政策以来、最大級のインフラ支出を検討するということである。これに、米医療保険制度改革法(いわゆるオバマケア)の拡充や公共部門の雇用プログラム、キャピタルゲイン増税を含む税制措置などもねじ込もうとする動きも加わる。財政支出は拡張する一方である。

米国経済の成長確度の高まりが米国債券相場に及ぼす影響とは

金融市場では、既に財政支出拡大を織り込んでいるが、ここへ来て経済活動の再開が重なったり、新型コロナウイルスのワクチン接種が進み始めたりしたことで、米国経済の成長確度とインフレ率上昇見通しが高まっている。

このため、米国債券相場は続落し、長期債を中心に利回りの上昇が続いている。米国債の利回りは約1年ぶりの水準まで上昇し、インフレ期待は2014年以来の高さとなり、利回り曲線も期間の長短で利回り差がこの1年で最も大きい、スティープ化した状態になっている。

このイールドカーブのスティープ化は、市場がコロナ禍後の経済回復を予想して、債券取引に臨んでいることを示している。加えて、財政ファイナンスの規模が拡大する中で、次から次へと新発債の入札が実施される状況で、財務省と米国債のプライマリーディーラーは大忙しである。

これだけ国債が発行され続ければ、いくら金余りとはいえ食傷気味にもなるだろう。また、金融緩和政策の継続による金余りは貯蓄率の上昇につながっており、景気回復軌道が鮮明になれば消費がより喚起され、これもインフレ率の上昇懸念に結びつく。

また、為替相場では米長期金利の上昇が米ドルの支持材料になってきており、2020年第4四半期に見られた米ドル安傾向とは明らかにトレンドが変化している。当面、この傾向は続くだろう。

今後注視したい3つのシナリオ

市場の記憶にあるのは、2013年5月、バーナンキFRB議長(当時)の量的金融緩和策の縮小に触れる発言をきっかけに、債券相場で大規模な売り(利回りの上昇)を引き起こした「テーパータントラム(癇癪)」と呼ばれた現象である。

債券相場で売りが売りを呼び、米国10年債利回りが一気に1%も急上昇する事態になり、市場は混乱し、米国の景気回復は結果的に遅れてしまった。

FRBには、その苦い記憶があり、今回も出口戦略やテーパリングというキーワードに市場がどれほど神経質であるか、気を配っているフシがある。FRBとしては、市場との対話を続け、緩和的なスタンスと短期金利の低位安定を継続することで、市場をうまく操り、経済が景気回復軌道に着実に乗るまでの時間を穏当に確保しようという戦略が透けて見える。

シナリオ(1)世界経済はもがき続け、V字型には回復軌道を描かない

現実には、世界レベルとなった新型コロナウイルスとの闘いは、かなりの時間を要するだろう。集団免疫を獲得するほどワクチンが普及するのか、変異種の感染が拡大しないかといった疑念は残る。

結果として、世界的な需要の回復にはすぐに至らず、2021年も世界経済はもがき続け、V字型には回復軌道を描かないというシナリオも考えられる。

シナリオ(2)低インフレと安定成長を取り戻す

また、主要国の景気刺激策が一定程度機能しても、なかなかインフレ率の上昇にはつながらず、物価上昇はあってもマイルドな進行にとどまり、低インフレと安定成長を取り戻すことも起こりうるシナリオだろう。

実際、米国の失業率が低下し完全雇用と言わしめた2009~19年ですら、物価指標は落ち着いた動きをしていた。米国の雇用指標は失業率で6.3%と雇用ギャップをまだ抱えていることを示しており、冷静に見ればインフレリスクは限定的との判断もうなずける。

米国の物価上昇圧力がFRBの目標である2.0%を持続的に上回る可能性は依然小さいのではないだろうか。(2)は望ましいシナリオだが、それに行き着くには市場はおっかなびっくりでもあると言える。

シナリオ(3)金利の急上昇が景気回復の足かせとなる

今回のように、経済の回復を織り込みに行く段階で金利が上昇することを予想した筆者でも、今後、時間を経ずに雇用や消費のギャップが埋まり、金利が持続的に上昇するという見方に傾くほど、経済成長には楽観的になれない。

ただ、経済回復がより確かとなる局面では、やはり金利の動きは十分な注意を要する。テーパータントラムという悪夢のように、インフレに対する恐怖感が金利の急上昇に繋がり、それが景気回復の足かせとなるシナリオもないとはいえない。

(3)はあくまでもリスクシナリオだが、今後しばらくは、上記3つのシナリオから、どれに傾くかを念頭に置きながら市場を注意深く見ていく必要があるだろう。