どんなものについても言えることだが、「価値」=「価格」ではない。では、まったく「価値」を無視して「価格」がつけられるかと言えば、そうではない。特に市場性のあるものの価格は、それだけ大勢の価値判断の結果として価格が形成されるので、時には本源的価値から大幅にかい離したバブルも起こすが、いつかは本源的価値に価格が収斂するものである。
株式価値とは何か。株式価値は、株主に帰属する将来の期待フリーキャッシュフローを株主の要求収益率である株主資本コストで現在価値に割り引いたものの総和である。断言するが、これ以外の定義はない。投資理論の教科書を100冊読んでも、みな同じことが書いてある(用語は若干違うかもしれないが、意味するところや基本概念は同じである)。
株式価値が変化するのは、①割り引かれる分子の「株主に帰属する将来の期待フリーキャッシュフロー」が変化するか、②割り引く分母の「株主資本コスト」が変化するか、③あるいは、その両方が変化したときである。これを「リターン」とする教科書もあるが、厳密に言えば違う。
市場で取引される株価の変化、すなわちリターンは、この株主価値の変化とは独立に決まり得る(独立に決まる、のではない。「決まり得る」のだ)。無論、株主価値の変化を反映して市場価格が変動することもあるが、そうでない場合もある。株主価値が変わらなくても、価格は勝手に動く。つまり、「価値」と「価格」の二重構造となっているのだ。
上で株主価値について述べたときに、「これ以外の定義はない」と断言したのは、そういうわけである。学問上の株主価値はそのように定義できるが、では「株価」とは何か、「株価」はどのように決まるのか、については「断言」できないのである。
今年の初めに書いた「【緊急レポート】 センチメントとファンダメンタルズ」ではこう述べた。
<トレーダーは「価格」を追う。インベスターは「ファンダメンタルズ」を追う。良し悪しの問題ではない。やっているゲームが違うのだ。ファンダメンタルズが相場のトレンドを規定する。ファンダメンタルズはトレンドの底流をなすものだ。株価はファンダメンタルズで決まる。但し、ファンダメンタルズのまわりを常に揺れ動く。トレーダーはその揺らぎを捉えようとする。そうしたトレーダーたちの行動で、相場の振幅がアンプリファイ(増幅)されることもある。その揺らぎを「波」と呼べば、トレーダーたちはサーファーである。では、投資家は、波を見なくていいかといえば、そうではない。波だけを追いかけるのがトレーダーであるとすれば、投資家は波がファンダメンタルズからどれだけ乖離するかを見る。その波のピーク(頂上)で、あるいは波のボトム(底)で投資行動を起こす。サーフィングの基本は波をピークで捉え、ボトムでターンすることだ。その意味においては、投資家もまたサーファーなのである。>
要約すれば、ファンダメンタルズと市場でついている株価の乖離が利益の源泉となる。だから、株主価値の把握が重要である。それは理屈である。市場でつく株価は理屈ではない(正確には「100%理屈で決まらない」)。
株主価値の絶対水準の議論はまた次回するとして、ここでは、この数日間で株主価値に変化が生じたかどうかを考える。株式価値が変化するのは、①「株主に帰属する将来の期待フリーキャッシュフロー」が変化するか、②「株主資本コスト」が変化するか、③あるいは、その両方が変化したときであった。ここ数日で、上記①~③を大きく変化させるようなことは起きていない。
あえて言えば、今日発表された6月調査の日銀短観が市場の予想を上回る好調な結果であったことだ。特に設備投資や利益に関する項目の好調さが目立った。これは上記①の将来の期待フリーキャッシュフローを上方に押し上げる要因となるだろう。
ギリシャ不安はどう作用するだろうか?ギリシャ問題は上記①~③に何も影響を与えない。リスク回避の円高となって①の期待フリーキャッシュフローを押し下げるとか、②の資本コストに含まれるリスクプレミアムを増加させる - などと考えるのは「こじつけ」である。
まとめると、ここ数日、株主価値は変化していないにも関わらず、株価は大きく下落した。ファンダメンタルズと市場価格の乖離が拡大した。上で述べた通り、こうした乖離が利益の源泉となる。このような思考法に則って投資機会を追求していくと、総合的には利益を獲得できる確率が高い。
【別冊 新潮流】 走れメロス
◆「メロスは激怒した」 - 桜桃忌を約2週間近くも過ぎた今になって太宰治「走れメロス」の書き出しを引用したのは、まさに僕の気持ちがそうだったからだ。自民党の議員が、安全保障関連法案が徴兵制につながりかねないとの指摘について「そう報道している一部マスコミは懲らしめなければいけない」と語った。言語道断である。「政治家の資質を疑う」という声があるが、はっきり言って資質の問題ではない。即刻、議員バッジを外させるべきである。
◆「メロスには政治がわからぬ」 - 僕もわからない。それでも安保法制について、集団的自衛権の行使容認について、オンラインセミナー等で発言してきた。セミナー参加者からは、「政治のことは語るな」とお叱りを受けることが増えた。叱られても批判されても、僕が語ることをやめないのは政治的な信条を伝えたいためなどではまったくない。政治や法案について自分の考えを持っているが、それは「政治的信条」などというものとはほど遠い。ではなぜ政治の話をするのか。それは、このアベノミクス相場が、壮大な官製相場、政治によって創られてきた相場だからである。安保法案の審議をおろそかにして、内閣支持率が低下すれば、それは相場にとっても悪材料になるからである。冒頭の議員の発言を筆頭に、最近の自民党にはおごりやゆるみが目立つ。それは政治的にどうこう、というのを抜きにして、株式相場にとって大きなリスクである。
◆政治家の粗忽ぶりは洋の東西を問わない。いうまでもなく、ギリシャ国民の政治不信は日本の比ではなかろう。国民を代表してEUと資金支援交渉に臨んでいたチプラス首相が採った策が「国民投票」。これほどEUとギリシャ国民の双方をバカにした行為もない。自らの交渉の行き詰まりから、最後は「国民に聞いてみます」。首相としての、いや政治家としての責任放棄も甚だしい。
◆6月30日が期限だったIMFへの融資返済は果たされなかった。「デフォルト判定」には至らず、「支払遅延」であるというが、所詮、言葉遊び、なんと言おうが実質的には債務不履行に違いない。債務は英語でliability(ライアビリティ)。辞書を引くとまっさきに「責任」と訳がある。無責任な政治家に率いられた国が債務を履行するわけがないのも当然である。
◆メロスの親友セリヌンティウスの弟子、フィロストラトスがメロスの後について走りながら叫ぶ。「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。」
6月30日の期限に間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。「信じられているから走る」という気概が、あの政治家からは伝わってこない。いや、洋の東西の問題ではない。どこからも、伝わってこないのが、残念なところである。ちなみに、「走れメロス」はギリシャ神話とシラーの詩を原典としている。
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