今週は米国に出張しています。政府閉鎖が続くなか、連邦航空局(FAA)の航空管制官不足により、空の安全を保つため各社が減便中の今日、国内線を利用しました。果たして便が飛ぶのか、大きく遅延するのではないかと不安を抱えながら空港へ向かいましたが、結果として混乱も遅延もなく、予定どおりの運航でした。

それでも気になったのは、単純な疑問。「なぜ人員不足なのか」ということ。「命や安全に関わる業務」は出勤義務があるはずで、閉鎖が解ければ遡って給与も支払われる。それでも出勤しない、あるいはできないのは、支払いまでの間に生活が成り立たない人が多いという現実かもしれません。あるいは、今回トランプ政権が「自動的なバックペイ(遡及給与)の義務はない」との解釈を示したことで、保証への不信や支払い遅延リスクを感じたのでしょうか。

コスト削減を掲げる政府にとって、こうした閉鎖は「不要な業務を見直す契機」とも映るのかもしれません。働けなかった期間の給与を払うより、そもそも業務を縮小することで支出を抑える。そうした考え方が根底にあるのでしょうか。しかし航空管制は空の安全そのものであり、単なる「コスト」では測れない領域のはずです。

そして改めて考えさせられるのは、アメリカでは航空交通を「完全な公共交通機関」とは見なしていないのでは、という点です。政府の責任は安全確保までで、便数維持やサービス継続まで配慮する義務はない。国の責任の線引きをめぐっては政党間の思想的対立もあるでしょうが、こうした割り切り方もまたアメリカらしい。日本では、公共交通の維持において、公的機関の関与が比較的強い体制になっているように思います。

国家の役割、民主主義の信頼、そして「公共」という概念の根本。揺らぐ時代のなかで、マムダニ新市長のニューヨークがどのようにその「ゆらぎの先」を示していくのか、静かに見てみたいと思います。