東日本大震災から15年。あの日生まれた子が中学校を卒業するほどの月日が流れました。それでも2011年3月11日の光景は、今も多くの人の記憶に残っているのではないでしょうか。オフィスを襲った激しい揺れ、帰宅困難の列、そして画面越しに流れる信じがたい光景。「想定外」という言葉の重さを、多くの人が実感した日でした。
私自身、一昨年まで開催されていた「東北・みやぎ復興マラソン」に参加し、その地を踏みしめるなかで復興の歩みを肌で感じてきました。そびえ立つ防潮堤や整備された道路。ハードとしての復興は、着実に形を成しています。
しかし、ふと立ち止まって考えます。形あるものは造れば残りますが、その土地に息づく「文化」や「絆」といった目に見えないものはどうでしょうか。それらは、放っておいても形を保つコンクリートとは違い、動植物のようなものです。誰かが水をやり、手入れをしなければ、やがて枯れてしまう。文化とは「完成」するものではなく、終わりのないメンテナンスなのではないかと思います。
昨晩、旧友たちと友人宅で食事をしました。そこには、15年前にはまだこの世にいなかった子どもたちの姿もありました。誰からともなく「あの日はね……」と記憶が語り継がれる。こうした何気ない「記憶の共有」も、文化という灯を次世代につなぐ尊い水やりなのだと感じました。
こうしたメンテナンスの継続は、資産形成や社会との向き合い方にも通じる気がします。震災のあと、新型コロナや各地での戦争など、私たちは数々の「想定外」に直面してきました。未来を完全に予測することはできません。だからこそ、レジリエンスを持って現実と向き合い、複利の力を信じて知恵と資産をコツコツと積み上げていく。それが、私たちにできる最も確かな備えなのだと思います。
15年という月日の間に、戻ったもの、形を変えたもの、新たに加わったものがあります。次の15年に向けて、私たちは何を語り、何を積み重ねていくべきか。子どもたちの笑顔を見ながら、そんなことに思いを巡らせた夜でした。
