今日は4月9日に書いた<縁とは>の続編です。家族の先祖が190年前に或る強い思いを持って或るお寺でしたこと。その事実の記録がお寺で発見されて、お寺さんも家族もかなりの驚きだったこと、縁は原因ではなく結果ではないか、と感じたこと、を前回は書きましたが、そのお寺さんが家族の実家やお墓まで来て下さいました。そして私は自分の役割をじっくりと考えることになりました。
家族とお寺さんが190年前に思いを馳せる。その場に私もずっと一緒に居たのですが、ここで家族とは姻族なのです。今回のことのきっかけを作ったのは私なのですが、なぜ私がこのような役割を担っているのだろう?ということに思いが巡りました。
私は小さい頃から、自分を「器」のように考える傾向があります。私の人生の目標は、「あの人のようになりたい」「あそこまで行きたい」ではなくて、自分として出来るキャパシティの何%増しで自分を回しているか?自分の効用をどれだけ使い切っているか?社会の中の「器」としての自分がどれだけ社会の中で使われているか?というようなことなのです。4年半前に始めたマネックス・アクティビスト・ファンドの運用助言をする投資顧問会社も、私が会長を務めて中心となって活動していますが、「カタリスト投資顧問」と名付けました。カタリストとは触媒、もしくはきっかけ・触媒の働きをする人を意味する英語です。自分は触媒でありたい。カタリストでありたい。そういう気質が、私にはあります。
化学反応を起こす主役は、きっかけが欲しくて触媒を呼ぶのか?或いはきっかけが主役を呼び寄せるのか?そして何よりも、触媒である私の次の役割は何なのか?答えはすぐには見つかりそうにありません。でも、どの辺りにあるのかは、ちょっと分かる気もするのです。探したいと思います。