2月28日、トランプ大統領は上下両院合同本会議の演説において、医療保険制度改革法(オバマケア)を代替する医療保険システムを実現するための5つの原則を提示しました。実現が難しそうなもの、あるいは実現しても思うような効果が得られそうにないものもあり、米国の医療保険制度における諸問題を一気に解決するのは難しそうです。

オバマケアは、オバマ前大統領が当時約5,000万人とも言われた無保険者をなくすために主導し、2010年に成立、2014年以降に完全実施された制度です。これによって約2,000万人が医療保険に加入できたとされています。その一方で、健康状態の悪い低所得者の保険加入が増えた結果、保険金の支払いが急増し保険料の値上がりを招きました。また、未加入者は罰金(所得の2.5%)を課せられるのですが、保険料よりもずっと安いため、健康な人の中には罰金を払うことを選択し無保険のままという人もおり、このことがさらなる保険料の引き上げを招いたと見られています。オバマケアによってこれまで無保険であった人達の医療に対する「アクセス」は向上しましたが、「費用」の問題がより深刻になりました。

これに関連する興味深い考え方があります。1994年、ペンシルバニア大学の教授であった故キシック博士は著書(注1)の中で、ヘルスケアの鉄の三角形(The Iron Triangle of Health Care)という概念について述べています(図表1)。これは三角形の頂点に示した3つの要素:「費用の抑制(Cost Containment)」、「アクセス(Access)」、「質(Quality)」は互いにトレード・オフの関係にあり、1つの要素、あるいは2つの要素を改善できたとしても、それは残る1つの要素の犠牲によって成り立つというものです。オバマケアの導入前後の米国の状況を見ても、この概念は当てはまっているようです。

20170307_marubeni_graph01.jpg

翻って日本はどうでしょうか。世界に誇る日本の医療制度、即ち「国民皆保険」「フリーアクセス」によって、米国に比べれば遥かに安い患者負担で、自分が行きたい病院で受診することができ、質についても高い評価(注2)を得ています。一見、上述の3つの要素が全て成立しているように思えますが、日本全体としての医療費は高齢化や医療技術の高度化などの理由によって年々増加し、さらに医療費を含む社会保障関係費に見合った負担がなされず、赤字国債でその場を凌ぎ次世代に負担を先送りしている状況です。上記の三角形に当てはめると、「アクセス」や「質」を優先していることで、「費用の抑制」が犠牲になっている状況と捉えられます。

いつまでも「費用の抑制」を犠牲としていて良いのでしょうか。少なくともその負担を将来世代に先送りすべきではありませんが、それは現時点における保険料や税金、あるいは患者負担の上昇を意味します。将来不安や消費の低迷を招く恐れがあり、慎重な対応を取らざるをえないでしょう。

そうなると、「質」か「アクセス」を犠牲にする必要が出てきます。しかし、「質」を犠牲にすることはヘルスケアにおいては文字通り致命的になる可能性があり、容易では無さそうです。「アクセス」の犠牲はどうでしょうか。重篤な疾患のケースにおいてアクセスが悪い状況は避けなくてはなりませんが、軽度の疾患での受診については、「鉄の三角形」の制約がある以上、一定のハードルが課されても致し方ないと筆者は考えます。米国は費用の問題が主ですが、社会保障制度が充実し、医療費の患者負担が極めて低いとされている北欧の国々であっても、低い費用負担で受診できる医療機関は予約を取ること自体が極めて困難なせいか、風邪程度の症状では診療所や病院に行かない(行けない)のが一般的な様です。日本においても軽度の疾患では保険適用外、それ以外のケースでも救急以外は診療所の受診を経なければ、病院などの専門的な医療にはアクセスできない仕組みを早急に導入するべきだと考えます。

2025年には、団塊の世代が全員75歳以上となり、日本の医療費は現在のおよそ40兆円から60兆円にまで急増することが見込まれています。上述の3つの要素を同時に成立させる方法が見つからないのであれば、それらの中で何を選んで何を犠牲にするのか、決めなくてはなりません。残された時間は多くありません。一刻も早い対応が望まれます。

(注1)KISSICK, W. L. (1994). Medicine's dilemmas: infinite needs versus finite resources. New Haven, Yale University Press
(注2)OECD (2014). OECD Reviews of Health Care Quality: Japan - Assessment and Recommendations.

コラム執筆:近内 健/丸紅株式会社 丸紅経済研究所

■ 丸紅株式会社からのご留意事項
本コラムは情報提供のみを目的としており、有価証券の売買、デリバティブ取引、為替取引の勧誘を目的としたものではありません。
丸紅株式会社は、本メールの内容に依拠してお客様が取った行動の結果に対し責任を負うものではありません。
投資にあたってはお客様ご自身の判断と責任でなさるようお願いいたします。