人それぞれに固有の声の大きさというものがありますが、文化によっても声の大きさは違うものです。人固有の声の大きさの違いは、環境や聴力、様々な要因があるように思われますが、個別差が大きく、一概には語れないでしょう。一方文化による違いは、これはその要因は考察の対象となり得るように思われます。

声が大きいと一番感じるのは、例えばニューヨークのレストラン。とにかくうるさい。みんなが怒鳴り合っているようで、店の中の音楽の音量も大きいので、こちらも怒鳴り返さないと一切会話が成り立ちません。まだ若い頃、外資系投資銀行に勤めている時は、ニューヨークで同僚たちとディナーに行くことに、恐怖や絶望に近い感覚を持ちました。うるさくて聞き取れないことに加えて、夜の席では口語表現というか昼間よりもネイティブ・スピーカー以外には分かりにくい単語や云い回しも多く使われるので、大変です。

しかしなんであの人たちはディナーの席であぁも怒鳴り合うのだろう?日本では考えられません。鮨屋でも、縦文字のお店でも、横文字レストランでも。しかしニューヨークのレストランがどこも怒鳴り合っているかというと、静かに食べている店もあるのです。だいたいそう云うところは高齢者がメインの客層です。日本でも比較的若い人が主な客層である居酒屋とかでは怒鳴り合ってるような感じの所もあるか。うーむ、年齢の問題かなぁ、それだけかなぁ。
昔、確か司馬遼太郎の本を読んでいると、明治時代に標準語なるものを作る時に、テキパキとした言葉でないと欧米諸国との議論に太刀打ち出来ないと考え、日本中でもっともテキパキとした言葉である土佐弁を中心に、標準語を作ったと書いてありました。少なくともそう記憶しています。(当時の)高知の居酒屋では、皆くっきりとした言葉で、かつ大きな声で議論を交わしており、まるで喧嘩をしているように聞こえるが、実は仲良く歓談しているのだと。

なるほど。そのあたりにレストランでの声の大きさの要因があるかも知れません。議論好きな土地柄では食事の時に声が大きくなる。すると耳に障るので、音楽を大きくして掻き消そうとする。すると更に声は大きくなる。こんな循環が起きているのでしょうか。アメリカ人とやり合っていくためには、先ずは居酒屋で大きな声での議論に慣れることが必要かも知れませんね。