大災害は人を鈍感にします。最初は強い悲しみが、次に不安が襲い、そして鈍感になっていく。歴史上世界各地で起きた大災害に於いて、これは自然災害でも人的災害でも、全く同様のパターンが認められると、多くの学者が説明し、また様々なメディアに書かれています。今回の日本でも同じことが起きているように見えます。ニュースに驚かなくなる、反応しなくなる。被災地の状況から原発問題、日々感じる余震まで、広範囲にわたって多くの人が鈍感になってきていると思います。斯く云う私も例外ではありません。
この数週間、様々なパースペクティブ(視点・視角)を努めて持とうとしてきましたが、それは全体像を正しく把握しようとする行動であると同時に、この「鈍感化」現象とも関連があるかも知れません。人の、生きるための機能として、本当に厳しい時には鈍感になろうとする。同時に鈍感になるためには視角を狭くしようとする。見たいものだけを見る、聞きたいものだけを聞くようになる。その結果鈍感になりやすい。しかしそうなると、同時に情報の欠落が起きてリスクが高まる。それに対する対抗策として、意識的にパースペクティブを拡げようとしていたのではないかと。
しかし、その根底には「鈍感」になっている自分がいます。この「鈍感」とは、対象を選ばず、身の回りのこと全てについて鈍感になることのように思えます。災害とは関係のないことについても、鈍感になっている自分に気付きました。さてこれはどうしたものか。しかしそんなに器用でもないので、暫くは鈍感であることに甘んじ、またお互いにそうあることを許容せざるを得ないでしょうか。