昨日、久し振りにお経を聴きました。
あの空間が、私は案外、もしくはかなり好きです。目を瞑りながら、お寺さんが読経するのに聴き入っていると、頭や体がグルグルと回転するような錯覚に囚われます。その感覚が心地良く、自然とその状態に身を委ねながら、色々なことを考えました。その空間は極めて私的な場でしたが、私の考えは実に様々な領域に至りました。当然のように、私的な文脈から始まり、それが仕事の分野にまで及びました。
数十分間のことでしたが、頭の中がある程度スッキリした気がしました。思うに、これは必ずしもお経の効用ではないかも知れません。
最近はどこもかしこも新しい情報に溢れ、或いは私の貧乏性の所為かどこでも携帯などで情報を漁っているので、ゆっくりと一人っきりで外部情報を遮断して物事を考えることが少なくなりました。例え一人で考え始めても、様々な理由からその思考が中断されることが多いと思います。
法事の中でお経に聴き入ることが、結果として或る程度まとまった時間の独立思考空間を創り出したのでしょう。昔は英語の歌を聴くと同じような状況になれたのですが、最近は流石に少々意味が分かるようになってしまいダメ。或いはかつてはジャズ、特にフリー・ジャズなど聴くと、或いはピンク・フロイドなどを聴くとそう云う状況を創れたのですが、これもフレーズを全て憶えてしまったので、その記憶が思考を中断します。
お経は「良く分からない」から逆に良かったのでしょう。しかしお経をイヤホンで聴きながら瞑想するのもちょっとナンなので、フランス語かスペイン語の歌、或いは聴いたことのない民族音楽でも聴きながら、『インスタント熟考空間』の創設にトライしてみたいと思います。