以前、「日本の女性リーダーが、ある国の女性リーダーを囲む会」に招かれました。女性活躍が声高に語られるいま、こうした「女性リーダーが互いの経験を語り合い、次の世代の道を拓こう」という集まりは珍しくありません。普段は少数派として奮闘する者同士、安心できる場。のはずが、私は少し疎外感を覚えました。言わば、「女性の集まり」で感じた「二重のマイノリティ」です。

というのも、集まった女性たちは皆、英語が堪能でした。外国で育ったり、留学/駐在経験を持つ方が多かったのでしょう。主賓だった女性リーダーは日本語が堪能とのことでしたが、会話は自然と英語で進みます。「おっと、これは私には無理だ…」と心の中でつぶやき、気づけばほとんど何も発せぬまま会が終わっていました。

今思えば、誰も私の語学力など気にしていなかったはずです。それでも、自分で自分にブレーキをかけてしまった。コンプレックスの表れでした。同時に、改めて思ったのは、マイノリティとは性別や国籍といった属性ではなく、状況によって移ろうものだということです。

同じ属性の人が集まっても、そこにはまた別のヒエラルキーや文化的な差が生まれます。国籍、性別、学歴、ライフスタイル、言葉の壁。どんなコミュニティにも、誰かが少数派として存在する。「自分とは違う」と感じる瞬間は、どこにでもあるのです。誰もがどこかでマイノリティ。その感覚を持ち続けることこそが、他者に寄り添う「共感力の原点」だと思います。

だからこそ、人は I am who I am. 私は私。

ある政治家が放ったこの言葉がXで話題になっているのを見ましたが、まさにその通りだと感じました。誰かと比べなくていい。誰かの型に無理に合わせなくていい。けれど、「誰もがどこかでマイノリティである」という感受性は忘れずにいたい。それが、社会で優しさと強さを両立させるための羅針盤になるのかもしれません。