◆この前の日曜日、9日はベルリンの壁崩壊から25周年とあって、メディアは関連記事で埋め尽くされていた。1989年11月9日、東西冷戦の象徴が壊された。壁が重機などで実際に崩され始めたのは10日だというが、この際、そんな細かいことはどうでもいい。もっと言えば、11月9日のベルリンの壁崩壊はまさに「象徴」であり、通過点に過ぎない。ベルリンの壁崩壊に先立ってハンガリーやポーランドなどの東欧諸国ではすでに民主化の動きが活発となっていた。それらの国経由で西側へ脱出する東ドイツ国民の流出が止まらない状況だった。おおもとを辿ればその数年前から始まったゴルバチョフによるペレストロイカに行き当たる。

◆壁崩壊の翌月、89年12月にブッシュ・ゴルバチョフ米ソ首脳がマルタで会談し、東西冷戦の終結宣言をおこなった。冷戦の始まりは第2次世界大戦末期のヤルタ会談からだから「ヤルタからマルタへ」と言われた。翌90年には東西ドイツが統一を果たし、さらに91年には冷戦時代の主役の一方、ソビエト連邦が瓦解し消滅した。冷戦の終結が意味するものは、西側・資本主義の勝利か、東側・社会主義の敗北かとよく言われる。これもまた、お定まりの答えだが、主義で言えば「自由主義」の勝利であったと。

◆「自由」の反対が、「管理」「抑圧」だろう。86年に出版された『悪童日記』は、占領下にある架空の国が舞台だが、作者のアゴタ・クリストフが、ハンガリー動乱の際に西側に亡命したハンガリー人であることを考えると、ブタペストが舞台のモデルと思われる。当時の東側の抑圧された重苦しい雰囲気が伝わってくる。

◆僕は大学でソビエト連邦の社会経済とロシア語を学んだ。ドストエフスキー(今日はドストエフスキーの誕生日である)を原語で読みたい、という気持ちもあったけど、もうひとつの理由は東西冷戦で仮に東側が勝った場合、ロシア語ができたほうが何かと有利になるのではないかと考えたからだ。自分としてはリスク分散のつもりであったが、所詮は本当の意味の「自由」も、そして無論のこと、「管理」「抑圧」も知らない、気楽な日本の学生感覚だった。

◆管理・抑圧の対極にある自由の本質は、知る権利である。1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故では、書記長であるゴルバチョフの元に情報が届かず、ソ連の秘密主義体質が最悪の状況にまで達していることを明らかにした。それをきっかけにゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)を進めていく。それこそがペレストロイカの中心政策だった。

◆今も民主化されていない国は世界中に多くある。わが国の近隣にも存在する。では、そういう我が国はどうか。日本は、情報の公開だけでなく情報の管理でも欧米先進諸国に大きく後れをとっているという指摘がある。そういう状況でさらに今年12月には特定秘密保護法が施行される。真の民主国家へと向かうには完全に逆行する動きだ。ベルリンの壁崩壊25周年で僕が思ったのは、日本の民主主義というものについてであった。

マネックス証券 チーフ・ストラテジスト 広木 隆