土曜日に、前橋に行きました。或る特殊な理由があって行ったのですが、それに合わせて日曜日に、萩原朔太郎にゆかりの場所を訪れました。萩原朔太郎記念・前橋文学館で、全て知ってるつもりではあったものの朔太郎の歴史や説明を再度読み、ゆかりの写真や書籍類を眺め、文学館の向かいにある萩原朔太郎記念館で移築された生家を見て、郷土望景詩に詠まれた波宜亭があったであろう場所の近くの臨江閣を訪れ、そしてやはり郷土望景詩に詠まれた、いつか必ず行きたいと思っていた大渡橋を渡りました。朔太郎ファンの私にとっては、とても充実した時間でした。
朔太郎についてはもう全部知っているつもりだったのですが、当然新しい発見がありました。朔太郎が編んだアンソロジーである「昭和詩鈔」は、私の最も好きな書物のひとつなのですが、その昭和詩鈔を編んで出版したのが、朔太郎54歳の時だったと云うことです。これは、実は衝撃でした。云われてみれば、昭和詩鈔は朔太郎晩年の仕事であることは明らかなのですが、どこかでなんとなくアンソロジーはもっと若い時に編むものと勝手に思っていたのです。
と云うのも、私自身が大学生の時にアンソロジーを編もうと途中まで作業していたのですが、遊びが忙しくなって中断してしまい、それっきりになってしまったのです。そして確か10年ぐらいしてから、かつてやりかけたアンソロジーの編纂を完了しようと思い、作業途中だったノートを引っ張り出して見たのですが、既にその時の私の感性と、10歳若い時の大学生の私の感性は違っていて、大学生の頃の、恐らく最も研ぎ澄まされてかつ言語化することも可能だった私の感性を、魚拓のように写し取ることはもう不可能だと思い、大きな落胆と共にアンソロジー計画は諦めたのでした。
そのことがあったので、若い時を逃した私はもうアンソロジーは編まない、と勝手に決めていたのですが、朔太郎が昭和詩鈔を編んで出版したのが54歳の時と知り、これは今更ながらでも取り組む価値はあるかも知れないと思ったのでした。しかし!朔太郎は54歳になるまで詩作にのみ没頭し続けた結果の詩鈔です。私の場合この30余年没頭してきたのは、詩ではなくマーケットや経営なので、アンソロジーを編むとしたら、詩ではなくて、過去マーケットや企業や人のアンソロジーであるべきでしょうか。
そんなことも思った前橋行は、深い味わいのあるものでした。また行こうっと!