経済活動とワクチン

世界における新型コロナウイルスの新規感染者、死亡者数は6月上旬時点で、それぞれ1日あたりおよそ11~13万人、3~5千人程度で推移しています。

新規感染者数については依然増加傾向にあるものの、検査の件数自体を増やしているという背景があること、また、死亡者数については4月中旬頃の1日あたりおよそ8千人という数字に比べれば減少していることから、総じて落ち着いてきたという見方もできます。しかし、楽観できる状況とはいえません。

一部の国や地域では経済活動を再開し、米労働省が6月5日に発表した5月の雇用統計は大幅な改善を見せました。しかし、従来我々が営んできた生活や経済活動とは、依然として大きくかけ離れているのが実態ではないでしょうか。このような状況下、新型コロナウイルスに対処する方法として、そして我々が従来の日常を取り戻すために最も有効であると考えられているのがワクチンです。

ワクチン開発競争と米大統領選挙

すでに多くの企業、研究機関がその開発に取り組んでおり、WHOによれば世界で10の候補品が臨床試験入りし、それ以外に126の候補品が前臨床試験の段階にあります(6月9日時点)。

先月、米トランプ政権は「オペレーション・ワープスピード」と呼ばれるワクチン開発加速計画を打ち出しました。多くの場合10年以上を要し、これまでの最短記録ですら4年というワクチン開発をわずか数ヶ月に短縮しようとするものです。

11月に米大統領選挙を控えるトランプ米大統領にしてみれば、ワクチン開発の成功、さらには量産体制の確立、大規模接種の実施により、かつてのような生活と経済活動を取り戻すことで、あるいはそれに目処をつけることで再選を目指したいという思惑も見え隠れします。

米国における感染症の流行 ― ポリオ

さて、米国政治にも影響を与えつつある感染症ならびにワクチン開発ですが、米政権がその成功を待ち望んだのはこれが初めてのことではありません。

時は1900年代前半まで遡ります。1912年、米国ではポリオ(※1)による死者が7千人以上に上りました。命を取り留めても、麻痺が残る人も多くいました。1921年には39歳のフランクリン・ルーズベルトがポリオと診断されました(※2)。

その後ルーズベルトは後遺症に苦しみながらも、4期(1933~1945年、※3)米大統領を務め、その一方でポリオに苦しむ人々を救うために、1938年には全米ポリオ財団を設立しました。財団には多くの寄付が集まり多額の研究助成もなされましたが、ポリオの収束には至らず、1952年には再びポリオが米国で流行し、3千人以上が亡くなりました(図表1)。

【図表1】 米国におけるポリオによる麻痺の発症者数と死亡者数
出所:US Public Health Service, US Center for Disease Control

ワクチン開発の成功と急かされた製造承認

そんな状況を救ったのはワクチンでした。1955年4月12日、ジョナス・ソーク博士によって開発され、前年4月からは数十万人規模で臨床試験が行われていたワクチンの有効性と安全性が発表されました。この発表は全米各地の映画館に中継もされ、米国は祝日のような状態になったと言われています。

しかし、その後に事件が起こりました。ワクチン製造企業5社のうちのひとつである米カッター社が製造したワクチンの接種を受けた子供がポリオを発症したのです。被接種者以外にも感染は広がり、最終的に同社のワクチンに起因して麻痺が残った患者は164人、死者は10人に上りました(参考文献1)。

原因はカッター社がワクチン製造のプロセスを勝手に変更したことで、不活化されなかったウイルスがワクチンに含まれていたこととされています。

しかし、カッター社の過失以外にも注意しておくべきことがあります。臨床試験の結果が報告された当日にワクチン承認のための諮問委員会が開催されたのですが、驚くことに委員たちは当時の保険教育福祉長官からその場で結論を出すように求められました。

初めて目にする2,000ページ以上の書類を前に、当初与えられた時間はおよそ1時間。最終的に審議は2時間半に及びましたが、深い議論ができなかったことを後に当事者が述べています(※4)。

最終的に5社から申請された製造承認が一括して認可されましたが、拙速といわざるをえません。

歴史の教訓

米トランプ政権は今月初めにワクチン開発について、有望であるとして支援対象とする5社(図表2)を選定しましたが、ここには不活性化ワクチンは含まれておらず、ワクチン接種による新型コロナウイルスへの感染は理論的には起こりえません。

また、製造に要する期間も従来の鶏卵培養などによるワクチンに比して短く、副作用の可能性も小さいとされています。

【図表2】 米政権が早期のワクチン開発のための支援を行うとして選定した5社
出所: New York Times: https://www.nytimes.com/2020/06/03/us/politics/coronavirus-vaccine-trump-moderna.html(2020年6月10日閲覧)/Mullard A.: Lancet, 2020, 395, 1751-1752.

しかし、審査が十分に行われなかったり、生産を急ぐあまりに必要な手順が省かれたりするようなことがあれば、ワクチンによる事故が起きても不思議ではありません。ワクチンの承認前にその生産の準備に入ったり、審査期間を(当時ほどではないにせよ)短縮しようとしたりといった動きはポリオワクチンの開発、承認の際の状況に重なる部分があります。

また、先の保険教育福祉長官が結論を急かした背景には「ワクチンを早く承認すべき」という世論の圧力があったともいわれています。この点について、現在、そのような圧力が無いとはいえません。

開発や承認が早まり、これまでのような経済活動が行えるようになることは切なる願いです。ただ、それ以上に歴史の教訓に学ぶべきことは学び、拙速にならないことを祈るばかりです。

 

(※1)ポリオウイルスによるウイルス性感染症。ウイルスが脊髄の一部に入り込み、手足に麻痺があらわれ、一生残ることもある。現在も病原体特異的な治療薬は存在しない。

(※2)後年の研究ではギラン・バレー症候群であった可能性も示唆されている(参考文献2)。

(※3)現在は憲法によって正式に大統領は2期までと定められているが、当時は「2期まで」というのは慣例であった。

(※4)現在は数万~十数万ページの書類を1年程度かけて審査するのが一般的。

(参考文献1)Offit, P A. The Cutter Incident: How America's First Polio Vaccine Led to the Growing Vaccine Crisis. Yale University Press, 2005, pp. 58-82.

(参考文献2)Goldman A. et. al.: Journal of Medical Biography, 2003, 11, 232-240.

 

コラム執筆:近内 健/丸紅株式会社 丸紅経済研究所 産業調査チーム長