週末に、いくつかの小説を読みました。「本」に関して、私はかなりの雑食で、先ずはかなりの種類と量の雑誌を読みます。定期購買しているものは一切なく、一々本屋さんに行って、表紙を見、目次を見、バラバラと無規則に気紛れに偶然的に買います。雑誌を多読するのは、情報収集の為の行動です。雑誌以外に読むのは小説です。推理小説、ミステリーの類は一切読みません。恋愛とか人生とか、その手のものが主で、それも好みは純粋なフィクションよりも、自伝的な「書かざるを得なかった生の叫び」系のものが好きです。しかし傾向は様々で、ナイーブなものからハードなものまで、かなり広角に対応します。
この週末にも、超お気楽ハッピーエンドの緩い作品と、超硬派・マゾヒスティックに破壊的な作品とを読みました。世の中の全ての「人」を扱った小説は、この2つの作品を両端に作られるスペクトラムの何処かに存在するのではないかと思われるほどでした。そしてふと気付いたのですが、私はこの手の小説を、自分の心にある様々なスポットを硬化させないために読んでいるのではないかと。心には色々な要素があります。放っておくと忘れたり萎えたりしていく部分もあります。そうならないように、そこに手を突っ込んで揉むような。或いは心は1枚のレリーフであり、様々な模様と微妙な起伏がある訳ですが、放っておくと塵が積もってくる。
そこでいくつもの違う刷毛を使って、部分部分を掃き出して元のレリーフを復活させるような。この場合は漱石の「夢十夜」の、運慶が木の中から彫刻を掘り出す(掘って彫刻を作るのではなく、予め木の中に存在している仏を、運慶が掘り出す)夢に似ています。カラダも頭も心も、硬化させないように気を付けていきたいと思います。