私がソロモン・ブラザーズという会社で働いていた時、そのアービトラージ・トレーディング・デスク(アーブ・デスク)は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。自己勘定で債券の裁定取引をしていたデスクなのですが、恐らく当時のアメリカに於いて−それは即ち世界に於いて−、圧倒的にずば抜けた理論武装をし、当時まだ珍しかったスーパーコンピュータを駆使し、厖大な経験と凄まじい胆力があり、そして何よりも兎に角滅茶苦茶儲けていました。そのため、アーブ・デスクは治外法権的な特権を恣(ほしいまま)にしていました。私は、そのアーブ・デスクだけの為の特殊マーケティング部隊の一員として、入社して未だ1年も経たないぺーぺーでしたが、彼らの周りでOJTを受けていました。
そんな或る日、アーブ・デスクの連中がアトランティック・シティに行くことになりました。アトランティック・シティとは、NYから車で2時間ほどの所にあるカジノです。あれは確か火曜日の午後2時でした。アーブ・デスクとその周辺の特殊部隊の連中が、カバンを持ち、身支度を始めました。「オーキ、行くぞ」。未だマーケットの開いている真っ昼間です。私は言われるがままに訳も分からず彼らに付いていきました。
ビルの外に出ると車が迎えに来ており、その車に乗って、当時まだ在ったウェスト・ストリート沿いのヘリポートに行きました。会社からは5分ぐらいの所です。そこから大き目のヘリに乗って、やはり当時まだ在ったドナルド・トランプのカジノの目の前のヘリポートに飛びました。たったの20分ほどです。それだけ急いでカジノに行った訳ですから、すぐにゲームを始めるのかと思いきや、彼らは急ぎ足でカジノのホールを通り抜け、レストランを探し始めました。
ようやく、カジノの中で一番高級で静かなレストランを見つけて入り、みんなが座れる大きなカウンター・テーブルに着席しました。私はてっきり先ずは腹ごしらえかと思い、メニューを見始めたのですが、みんながニヤニヤしながら言います。「オーキ、お前は何をしようとしているんだ。俺たちはカジノに来たんだぞ」。私は狐につままれたようでした。(つづく)