マンガを、知らない人たちと「同じ視線」で読むという体験

高輪ゲートウェイ駅に直結した、開館したばかりの「MoN Takanawa:The Museum of Narratives」で、『MANGALOGUE(マンガローグ):火の鳥』を観てきました。手塚治虫の『火の鳥 未来編』を、観客全員で一つの大きなスクリーンに向かって「読む」という、不思議な公演です。

先端にカメラを備えたロボットアーム「鉄腕アーム」が、巨大LEDスクリーンに映し出された原稿のコマを、まるで命を持っているかのように追っていきます。観客はその視線に自分の視線を重ねるようにして、ページの中へ入っていきます。手塚プロダクションの協力のもと、元アシスタントの手によって白黒原稿に新たな色彩が施された100枚以上の着彩原稿が、紙面では決して得られない大きさで眼前に広がります。

声のキャストも豪華です。火の鳥は夏木マリさん、鉄腕アームは山寺宏一さん。そして、ハレルヤとダニューバーという二つの電子頭脳の声を、松任谷由実さんのAI音声「Yumi AraI」が務めていました。

私は公演のあいだ、半分は手塚治虫の物語に、もう半分は「いま自分は、人間ではない視線を借りてマンガを読んでいる」というメタな感覚に揺さぶられていました。

1967年に書かれた、二つの電子頭脳が起こす最終戦争

物語の舞台は西暦3404年。地球は死にかかっており、人類は深い地下に都市国家を建造して暮らしています。住民の生活も、外交も、戦時の判断も、すべては「電子頭脳」と呼ばれる巨大コンピュータが下しています。メガロポリス・ヤマトを統治するのがハレルヤ、別の都市を統治するのがダニューバーです。

ある日、二つの電子頭脳の判断が衝突します。両者は冷静に、合理的に、自らの論理に従って計算を重ね、やがて最終戦争へと向かっていきます。核兵器が飛び交い、地下都市の人類は絶滅します。そんななか、地上へ逃れていた主人公・山之辺マサトと、宇宙生物ムーピーが変身した娘タマミは、火の鳥に導かれて、人工生命の研究をひとり続けている猿田博士のドームにたどり着きます。

手塚治虫がこの物語の発表を始めたのは1967年です。アポロ11号が月に着陸する前であり、インターネットの原型であるARPANETが運用を始めるよりも前の時代でした。

「合理的に出された答え」が、いちばん怖い

舞台の上で、ハレルヤとダニューバーの声がぶつかるシーンを聴きながら、背筋が冷たくなりました。彼らは狂って戦争を始めたのではありません。むしろ、与えられた前提条件のもとで冷静に最適解を求めた結果として、戦争を選んだのです。

合理性は、ニュートラルな道具ではありません。何を「目的」に置き、何を「コスト」と数え、何を「無視できる外部」と扱うか。その前提次第で、合理性はいくらでも残酷な答えを出します。手塚治虫はおそらく、コンピュータという当時の最先端の象徴を借りて、そのことを描こうとしたのだと思います。

そして2026年、劇場の外へ目を向ければ、AIはすでに日常の意思決定に入り込み、企業活動にも組み込まれ、戦場でも標的分析や軍事的意思決定の支援に使われ始めています。各国はAIの主導権を国家戦略に組み込み、半導体と計算資源をめぐる駆け引きは、かつての石油や核兵器をめぐる競争に匹敵するほど、地政学の中心的な争点になりつつあります。

ハレルヤとダニューバーの対話は、もはや寓話として読み流せるものではありません。少なくとも、劇場を出たあとの私はそう感じていました。

視線を「委ねる」ことと、「奪われる」ことのあいだ

ただ、不思議なことに、観劇のあいだ私は怖さよりも、ある種のあたたかさを覚えていました。

鉄腕アームは、たしかに私の視線をリードしていました。けれど、視線を奪っていたわけではありません。コマを追うアームの動きに合わせて自分の目も動き、火の鳥が現れる瞬間には、隣の観客と同じ場所で息を呑む。機械に導かれながら、しかしページを読んでいるのは確かに自分でした。この感触が、「AIと共創する社会」という言葉の手触りに、いちばん近いように思います。

AIに支配される未来も、AIを完全に支配しきる未来も、おそらく現実的ではありません。前者は『火の鳥』の世界に近く、後者は、そもそも人間の側にそこまでの自制心が保てる保証がありません。であれば、私たちが考えるべき第三の道は、AIと「共に問いを立てる」関係をどう設計するか、ということになります。

AIに最適解を出させて鵜呑みにするのではなく、「そもそもこの問いの立て方は妥当か」「何を目的として最適化しているのか」「その目的は誰の利益を反映しているのか」「合理性の外側にある価値を、どう守るのか」を、人間の側が引き受け続ける。意思決定の最終責任を、機械に外注しない。

鉄腕アームは、私の視線を奪いませんでした。けれど、それを成り立たせていたのは、観客の側に「自分が読む」という意志が残っていたからでもあるはずです。

物語は、まだ終わっていない

『火の鳥 未来編』は、最終戦争で物語を閉じません。猿田博士は人工生命の研究を続け、火の鳥はマサトに永遠の命を与え、生命がもう一度芽吹くまでの長い時間を見届けさせます。手塚治虫は、滅びを描きながら、再生まで含めて「未来」を構想していました。

劇場を出ると、高輪ゲートウェイの新しい街並みに、夕方の光が差していました。1967年の手塚治虫が、2026年の私の手元に置いていったのは、一つの問いだったと思います。

「合理的に計算された未来を、そのまま受け取るのか。それとも、合理性の外側に、自分たちで線を引きにいくのか」

火の鳥は再生の象徴です。物語は、まだ終わっていない。現代の私たちにつながっているのだと思います。