出井さんと初めて会ってから1ヶ月後くらいに、私は宣言通りゴールドマンのパートナーを自ら辞めました。当時のゴールドマンは上場を半年後くらいに控えていたので、その価値を理解している同僚のパートナー達からは「insane」と云われました。そしてその頃から、ソニーとの交渉が活発に始まりました。
出井さん以外の何人かの役員の方とお会いしましたが、必ずしも前向きな感じではありませんでした。或る役員の方からは、ソニー100%、即ちソニーの中でオンライン証券を作りませんかと云われましたが、それはやんわりとお断りし、1月にはソニー51%、松本49%で共同事業体(ジョイントベンチャー)を作る提案を受けましたが、こちらはきっぱりとお断りしました。するとその晩、六本木の外れの山路と云う鮨屋で飲んでいると携帯電話にスイスのダボスから電話がありました。「出井からの伝言です。『早まるな』と」。今ひとつ意味が分かりにくい伝言ではありました。
その後もソニーとの交渉は続き、結局3月下旬に、ソニー50%、松本50%で事業性確認(feasibility study)をするとっても小さい会社を作ることに同意し、その会社は株式会社マネックスとして、4月5日に設立されました。そして確か4月の終わり、ソニー本社と子会社の役員が大勢集まった経営会議のような所で、このプロジェクトを事業化するか否かを賭けたプレゼンをすることになりました。30人くらいは居たでしょうか。私の説明が終わると、本来はその場で唯一の部外者である私は部屋を出て、私抜きでその後の議論をする筈だったようなのですが、出井さんが「松本くんはそこに残って」と仰いました。
そして私の面前で、私のプレゼンに対するダメ出しが始まりました。多くの役員の方が否定的で「こんなプロジェクションは根拠もなくてデタラメだ!」とまで云われる始末で、私は本当に居場所がありませんでした。「ソニーが出資しなかったらどうするつもりですか?」と聞く役員の方も居て、私は「それでももちろん単独でやります」としか答えられませんでした。出井さんは目をつぶって腕を組んで、黙って議論を聞かれていました。時間切れで本件に対する議論が終わり、私も部屋から出され、オフィスに戻りました。
同僚が数名待っていましたが、もうソニーからの出資はない、もしかしたらほんの数%だけ出資してくれるかも知れないね、と話し、意気消沈し、黙々と開業準備の仕事に戻りました。すると1週間後くらいだったでしょうか、ソニーから電話がありました。ソニー49%、松本51%で事業化しましょう。え!?耳を疑いました。予想を大幅にいい方向に裏切って、私たちが元々もっとも望んでいた形に辿り着いたのでした。
今思い起こすと、出井さんは社内の反対をナビゲートして、ソニーの出資比率を100%から51%に先ずは落とし、50%の事業性確認会社を一旦は作り、更にそこから20%でも0%でもなく、49%に落ち着かせると云う離れ業をして下さったのだと思います。何でそんなことが出来たのだろう?今となっては分かりません。ただその半年程度のソニーとの交渉の中で、出井さんが私に仰った言葉は、少なくとも私が覚えているのは、「早まるな」(伝言)と「松本くんはそこに残って」のふた言だけです。
良く考えると、とても強い言葉です。出井さんには未来が見えていたのでしょうか?だから着地点に向けて進めたのでしょうか?この時はそうは思わなかったのですが、出井さんは未来人ではないかと、今となって思うことが一杯あります。いずれにしろこうしてマネックスは正式に産声を上げ、思い出①で書いた記者会見を迎えることになるのでした。