◆三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自決して今年で50年。日経新聞は先週4回にわたって「三島由紀夫 50年目の遺言」という特集を文化面に掲載した。その4回目で三島が太宰治を嫌いだという話が出てくるが、三島は太宰と同じ無頼派の坂口安吾のことは認めていた。なぜかはよくわからないし、そもそも人の好き嫌いにはっきりした理由などないかもしれない。ただ、僕は三島と坂口安吾には共通点があったと思う。それは「日本人の本質」についての捉え方である。
◆「三島由紀夫 50年目の遺言」第2回で社会学者の宮台真司氏はこう述べている。「日本人は敗戦後、一夜にして民主主義者に変わった。近年では一夜にしてLGBT主義者に、ダイバーシティ主義者になった。日本人は周りを見回して自分のポジションを保ちたがる、空っぽで入れ替え可能な存在だと三島は見抜いていた」。これは坂口安吾の堕落論に通じるところがある。
◆「戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ」(坂口安吾「堕落論」)。堕ちる、ということではないかもしれないが、日本人の変わり身の速さについては作家の橘玲氏がこんなエピソードを紹介している。戦争が終わるとGHQ宛に「拝啓マッカーサー元帥様」と書かれた手紙が続々と送られてきて、その数はなんと50万通にも達し、ほとんどがマッカーサーに対する賞賛と感謝だったという。
◆日本人は空っぽで入れ替え可能な存在。確かにそうなのかもしれない。しかし、そう卑下することもなかろう。過去に強いこだわりが無い分、新しいものを容易に受け入れるということだ。日本のIT環境のお粗末さがコロナで浮き彫りになったところに、規制改革を唱える政権の誕生で、世の中、一気にデジタル化に傾斜している。日本人は空っぽで入れ替え可能な存在なのだから、あっという間にデジタル化が普及するだろう。ハンコも紙文化も一夜にして捨て去ることができるに違いない。結構なことではないか。