香港人経営者たちが語る「今の香港」の実情
6月末に香港国家安全維持法が施行されて以降、日本を含む西洋諸国のメディアには「香港は死んだ」のような記事が溢れています。一面トップで葬式の告知のような記事を掲載した新聞もあったようです。
一方で、最近、香港ローカルの金融関係・不動産関係など主に財閥企業経営者に多くお目にかかる中で、皆さんとても元気に明るくビジネスに取り組んでいる姿を見ます。筆者は、日本の皆さんにもっと「経済都市香港の今昔」を知っていただく必要があると痛感しております。
香港人経営者の皆さんの言葉をお借りすると、概ね「今の香港」は以下のような感じです。
「国家安全維持法の施行で過激なデモも減り、街に平和が戻り普通に商売ができる。大湾区(Greater Bay Area)で商圏も10倍に広がるんだ。里帰り上場で金融は焼け太りだ!香港証券取引所(HKSE)の株価を見ろ!しかも、コンペティターの西側諸国企業が香港市場を死んだと思っているから、その間に我々はビジネスを伸ばせてラッキーだ。こんないい時に香港を捨てて他の国に行くやつなんていないよ。遠い未来の話より今日・明日の稼ぎを考えようぜ。まあ、コロナは抑え込まないといかんがな。」
つまり、現在の経済的枠組み(経済の一国二制度)が維持されることが香港経営者にとっては最も大切であり、それが阻害されない限りは何も言うことはないというのが正直な感想に見えます。香港にいるのは、商売をする為に住んでいるので、政治活動するためではないとも読めます。
19世紀初頭に5千人にしか居なかった漁村が750万人に膨れ上がったのは、その経済的な魅力に惹かれて人々が集まったことによるものと筆者は考えています。
香港経済を左右する3つの論点
さて、6月のコラムでも皆さんの香港経済の見方を揺るがすかもしれない論点について書きました。
1. 国際金融都市香港の資本市場の将来性は明るい。
2. 香港ドルと米ドルのペッグ制廃止論は杞憂である。
3. 大湾区(Greater Bay Area)構想は大きな香港の発展をもたらす。
上記3つの論点について、8月段階での筆者の認識は以下の通りです。
資本市場に関して言えば、香港証券取引所の株価は6月以来2ヶ月半経過した時点で上昇しています。プライマリー・セカンダリーで市場規模が大きくなっていく実感があります。これこそ香港人経営者の言う「金融は焼け太り」です。
香港ドルと米ドルの為替リンク制度廃止論については、今では誰も話題にしなくなってきました。香港ドルの短期金利が米ドル金利に対して0.4%程高いこともあり、為替レンジの最高値の7.75近辺には張り付いており、香港ドル売・米ドル買いオペレーションを当局が逆に仕掛けているのが今の香港ドルの姿です。資金は流出ではなく流入しているのです。
大湾区(Greater Bay Area)構想については、複数の経済人から「これは今、チャンスだよ。君もビジネスを考えておいたほうが良い」とのアドバイスをもらいました。当社のような小さな金融機関にも「GBAをターゲットにしてこんなビジネスを一緒にやらないか」と声をかけてくれる地元企業もあり、話を聞いているだけでもドキドキするような話が降ってきます。
コロナ禍で人の行き来が止まり、香港外の方からはまるで香港という街が止まったかのように見えるかもしれませんが、実はこの街は変わらず動いています。
そして、今思うに「香港は一日にして成らず」というのが筆者の感じるところです。
東洋と西洋が出会う経済の玄関口、香港の歴史
香港は歴史的に19世紀の後半から20世紀の前半にかけて、香港ドル経済圏を築いています。つまり、東南アジア・アメリカ西海岸・オーストラリアの華人経済圏において、スペイン銀等の銀硬貨の裏付けのある香港ドルでの決済を貿易商は好み、結果的に香港が広東省から上海・北京にかけての中国本土経済圏とパンパシフィックアジア経済圏との資金決済のゲートウェイとしての機能を果たすようになった歴史が厳然とあります。
当時「銀号」という銀行の原初形態のような組織が為替業務・両替・預貸業務等を営み、それが19世紀後半の経済の血流を支えていました。日本で言えば無尽・頼母子講に似た組織ではないかと思います。銀号の活動は先ずは香港―広州の決済ルートを作り、それが20世紀初頭になると華人経済圏であるシンガポール・タイなどの東南アジアとの広域接続関係を生み出しています。※
1912年には、初めて香港に華人資本による「銀行」が広東銀行という名前で誕生しています。4番目にできたのが2019年に100周年を迎えた東亜銀行です。広東銀行は、驚くことに広州・上海など中国国内だけでなく、バンコク・サンフランシスコ・ニューヨークにも支店を持っていたとのことです。
華人社会が如何に世界で経済圏を広げ、その中心が香港であったかがわかります。広東銀行の創業時の取締役には、当時米国の排華移民法の影響で香港に戻り米国の同郷人との関係を維持した企業経営者が名を連ねているのにもとても興味を惹かれます。
当時、米国社会において急速に華人が力をつけてきたのを嫌って排華移民法ができたのでしょう。この点は今の米中摩擦を想起させます。「歴史は繰り返す」です。広東銀行も、その後紆余曲折を経て、今は中国建設銀行香港支店に姿を変えていますが、当時、華人資本の銀行の誕生に如何に地元が湧いたか想像できます。時は第一次世界大戦の2年前のことです。※
あれから100年の月日が経過しました。「世界一の自由経済体制」「先進的なイノベーション」「英語・中国語の公用語」「低税率地域」という幾つかの大きな特色を持って香港という街は成長してきました。今回の国家安全維持法でも「経済の一国二制度」が堅持されたと読み取れます。
政治的な解釈がいかように振れようとも、East meets Westの経済の玄関口としての機能は100年以上の歴史を持って作られているのであり、国際金融都市香港・自由経済都市香港の顔は、そう簡単には変わらないと考えています。
香港はこれからがまた面白い
一個人として、欧米諸国による一連の香港ネガティブキャンペーンを見ていると「植民地政策の中で香港を自分たちがここまで生み育ててきたが、自分たちの権益を中国に本格的に取り返された」と言って大騒ぎしているようにも思えます。
そんな国際政治力学とは別に、そこに暮らす香港人は、コロナ禍に苦しみながらも、経済活動を一段と活発に行う機会を虎視眈々と狙い、一方で「美食の街」香港をこよなく愛しています。また、西九龍文化地区にアジア最大の芸術文化の街を作るという「創造」をテーマとした新たな動きも出てきています。
最近は政治的側面ばかりがフォーカスされている香港ですが、この街は決して「政治都市」ではなく、あくまで「経済都市」であり、そこで暮らす人々が織りなす「文化都市」でもあり、活力溢れた魅力の尽きない街なのです。
香港は一日にして成らず。そして香港はこれからがまた面白いのです。
※参考文献:香港「帝国時代」のゲートウェイ、久末亮一著、名古屋大学出版会