ソレイマニ司令官殺害の衝撃

年末年始の休暇気分も覚めやらぬ2020年1月2日夜、中東から衝撃的なニュースが飛び込んできた。イラン・イスラーム革命防衛隊ゴドス部隊(ペルシャ語で「エルサレム」の意。日本語ではコッズ部隊、クッズ部隊等と表記されることもある)のガーセム・ソレイマニ司令官が、イラクのバグダード国際空港にて米軍の無人機爆撃によって殺害されたというのだ。

攻撃はドナルド・トランプ大統領の命令下に行われ、他にもイラクの親イラン民兵組織指導者などが殺害されたという。2019年末からイラクにおいて親イラン派民兵組織と米軍との間で小規模な武力衝突が発生しており、それがエスカレートした形となった。

同日付で米国防総省から出された声明文によると、ソレイマニ司令官は「イラクおよび地域全体で米外交官・軍人を攻撃する計画を積極的に展開」しており、今回の攻撃は「将来的なさらなるイランの攻撃を抑止する目的で実行された」という。

これを受けて翌3日、イランの最高指導者ハーメネイー師は米国に対する激しい復讐を誓う声明を発出、イラン国民に対して3日間喪に服すよう命じた。その後、同月8日にはイランがイラク国内の米軍基地を報復攻撃した、と発表した。

以下、本稿では、米・イラン間の対立の歴史をおおまかに振り返った上で、ソレイマニ司令官の死がもたらす政治的影響と余波、そしてそれが原油市場の与えるインパクトなどを考えていきたい。

米国とイラン:対立と協調の70年

米・イラン対立の歴史は今から70年ほど前の1950年代前半、冷戦初期の頃にまで遡ることができる。米国は第二次世界大戦以降一貫して中東を死活的に重要な地域と位置付けてきたが、とりわけ冷戦期においては、(1)石油の確保、(2)ソ連の封じ込め、(3)イスラエルの安全保障、という3点が対中東政策における最優先課題とされていた。

そして、これらを実現するにあたり、「米国にとって、世界で最も好ましく、最も重要で、かつ最も誠実な友人」(ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官)とも称された当時のパフレヴィー朝イラン(1925〜79年)はきわめて重要な存在であった。

パフレヴィー朝は1925年、レザー・ハーン(後に皇帝となってレザー・シャーと称する)が開いたイランの王朝であり、潤沢な石油収入と軍・治安機関・秘密警察に支えられた強権的な独裁国家であった。

そんなイランにおいて、1951年、同国民の対米意識を決定的に悪化させる事件が発生した。熱烈なナショナリストであった当時のモハンマド・モサッデク首相が、それまでイラン国内の石油産業を独占的に支配し膨大な利益をあげてきた英国資本のAIOC(アングロ・イラニアン石油会社、現BP)の国有化を断行したのだ。

イラン国民は熱狂的にモサッデクを支持した。だが、これに対して西側諸国はイラン産原油をボイコットしたり、イラン沖に軍艦を派遣したりするなどイラン経済に対する締め付けを強化している。

最終的に1953年、英米(特に米国)の支援を受けた軍によるクーデターによってモサッデク政権は崩壊へと追い込まれた(大ベストセラーになった百田尚樹氏の『海賊と呼ばれた男』はこの事件をモデルにしている)。

これを機に、イランに対する欧米諸国の独占的石油支配体制がさらに強化されると共に、米国からの財政援助を受けたシャーによる軍事独裁体制がさらに強化されることとなった。他方、米国の傲慢で帝国主義的な介入は、イラン国民の心に強い不信感と反米感情を植え付けることとなった。

このときの感情は、その後イラン革命を経て現在に至るまで、同国の反米的姿勢の根幹を形成している。

一方で、モサッデク政権崩壊以降、米国とのあいだで密接な関係を築いてきたパフラヴィー朝であったが、その強権的で腐敗した独裁体制や拙速な近代化政策に国民は不満を募らせ、1979年1月、ルーホッラー・ホメイニー師率いる革命運動によってあっけなく崩壊する。

そしてその後に発生した米大使館員人質事件は、米・イラン関係を決定的に損なうものとなった。革命熱に浮かされた暴徒の群れが「米国に死を」と叫びながら米大使館になだれ込み、52人の大使館員を444日に渡って人質にとったのだ(ベン・アフレック監督・製作・主演による2012年の映画『アルゴ』は、この事件を米国側の視点から鮮やかに描き出している)。

無残な失敗に終わった特殊部隊による人質救出作戦は米国の屈辱をさらに上塗りした(この失敗が大きな失点となり、翌年の大統領選挙においてジミー・カーターは共和党のロナルド・レーガンに敗北した)。こうしてイラン革命は米国の政策決定者と一般国民に強烈なトラウマを残すことになった。

とはいえ、それ以降、米・イラン関係が常に最悪なものであったわけではない。たとえばイランは、2001年10月の米軍によるアフガニスタン侵攻に際して米側と密接な協力関係を構築し、ターリバーン政権打倒に向けて重要な役割を果たした。2003年以降のイラク安定化政策という局面においても、イランは米軍と陰に陽に強調してきた。2014年以降の米軍主導の対「イスラーム国(IS)」に際しても、イランは重要なパートナーとなった。

そして2015年7月に最終合意がなされたイラン核合意(JCPOA)は、イランの国際社会への復帰を印象付けるものであった。しかしながら、こうした米・イラン間の和解の動きは、2017年1月にトランプ政権が発足したことで根底から覆されることになった。

ソレイマニ司令官とは何者か?

それでは、今回殺害されたソレイマニ司令官とは何者であるのか。そもそも彼が率いたゴドス部隊、および同部隊が属するイスラーム革命防衛隊(IRGC)とは、イラン革命直後の1979年5月、旧体制下にあった国軍のクーデター防止、および左派ゲリラへの対抗を目的として創設された武装組織である。

当初は練度の低い民兵集団に過ぎなかったが、イラン・イラク戦争を通じて本格的な軍隊へと拡大していき、1990年代前半以降は国軍以上の領域をカバーするようになった。

革命防衛隊の規模はおよそ12万5000人(陸軍10万人、海軍2万人、空軍5千人、これらに加えて後述のゴドス部隊、そしてバスィージと呼ばれる民兵部隊を傘下に置く)と試算され、陸軍は全国31州に各地方司令部を置くとともに、海軍は武装巡視船126隻を始め多くの機材を保有、空軍は中距離弾道ミサイル等を装備している。

加えて、革命防衛隊は複数の関連企業を通じて、エネルギーや建設、運輸、通信・IT事業などの分野で巨大な経済利権を握っている。司令官はホセイン・サラーミー少将。

その中でゴドス部隊(兵力は5千〜1万5千人と推定されている)は、革命防衛隊の国外諜報・工作部門であり、イランが支援する他国の親イラン・シーア派組織への支援・軍事訓練・助言や対外的な破壊工作等を担当する。

ソレイマニ司令官は1990年代後半から長くそのトップを務めてきた人物である。イランからイラク、シリア、レバノンにまたがるシーア派民兵勢力(その多くは反米・反イスラエル的姿勢を鮮明にしている)のいわば親玉的な存在であった。

ソレイマニ司令官は正式な軍事訓練を受けたことはないとされているが、20代前半で革命に身を投じ、イラン・イラク戦争中はその勇猛な戦いぶりから幾多の武功をあげ、ついにはゴドス部隊を任されるようになった、いわば叩き上げの野戦司令官だ。最高指導者ハーメネイー師からの信頼も厚く、体制の根幹を担う人物でもあったといわれる。

また、その人柄に ついて、東京外国語大学の松永泰行教授は、「部下が負傷すれば病院に駆けつけ、亡くなれば実家に駆けつけ家族とともに泣く、浪花節的な人物」と評しており、「国民からは英雄とみられ、大統領候補に推す声もあるほどだった」と述べている(『朝日新聞』2020年1月4日付)。

イラン国内ではカリスマ性を備えた英雄として圧倒的な人気を誇る一方、米国やその同盟勢力からは大いに恐れられ、殺害リストのトップに常に名を連ねる人物であった。

なお、2007年10月にはジョージ・ブッシュ政権下でゴドス部隊がテロ支援組織に指定され、トランプ政権下では2018年10月に(少年兵をシリア内戦に送り込んでいることなどを理由に)米財務省がバスィージとその系列企業を経済制裁の対象に指定、2019年4月には革命防衛隊自体が政権によってテロ組織に指定されている。

後編に続く