「四十にして惑わず」(四十而不惑)。これは孔子の論語為政の中の有名な言葉です。しかし、この「惑わない」というのは、一体本意は何処にあるのでしょう。人生の目標をようやくしっかりと見極めるということでしょうか。目標を見定めるのは、様々な選択肢の中から好きなものを取り出すだけの力が備わるからでしょうか。それとも選択肢が徐々に狭まっていき、一つの目標に辿り着いてしまうということでしょうか。誘惑されない、という意味だとすると、それは分別が付くからでしょうか、それとも魅力がなくなるからでしょうか。孔子はまたこの言葉を自分はそうであったという意味で言ったのでしょうか、それとも”あるべき論”として言ったのでしょうか。
そもそも「惑わないこと」は、本当にいいことなのか、私には疑問があります。悩まずに進歩があるのでしょうか。惑いを消すというのは、知的な脳活動を停止させるということではないのでしょうか。「不惑」という観念は、極めて儒教的・東洋的であり、例えばラテン系の考えからは遠くかけ離れたもののように思えます。こうした名文句が一人歩きをして、無意識のうちに25世紀経った今も人生観に影響を与えているというのは、驚嘆すべきことです。しかし同時に、そういった「言葉」に惑わされてもいけないと、不惑を目前にふと思うのでした。(屁理屈でしょうかね)