東京の駒込に六義園という庭園がありますが、古地図を見るとその前を通る中山道に「『デンチュウ』トイウ」と書いてあります。これは「殿中」のことです。山田風太郎さんの説によると、六義園は柳沢吉保の屋敷ですが、時の将軍綱吉は自らの彼女を館林から連れて来たお側用人の吉保に嫁がせ、その彼女に会うために将軍在任中に何度も(確か20回近かったと思います。これは将軍の一家来の屋敷への御幸としては異常な回数です。)六義園に行き、前の中山道に裃姿の大行列を控えさせていたので、まるで江戸城内大廊下のようであったのでこのような名前が付いたと言います。
吉保の息子吉里は、天領であった甲府の地に封ぜられて、吉保のような元来下級武士であった家としては異例中の異例である25万石を与えられました(数字は若干間違っているかも知れません、全て記憶で書いておりますので)。柳沢家はその後大和郡山に移り、代々芸術に秀でたお殿様を輩出しました。そのあたりも将軍家御落胤という雰囲気がありますし、甲府の地が天領でなかったのも、江戸時代を通して確か吉里の時だけです。いろいろ想像すると楽しいですね。