◆逢坂冬馬氏の『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)は全選考委員が満点をつけ第11回アガサ・クリスティー賞を受賞した傑作である。独ソ戦のスターリングラード攻防を描く戦闘場面は迫力満点だ。銃器のディテールのち密さは、『野獣死すべし』で知られるハードボイルドの名手、大藪春彦を彷彿とさせる。タイトルからわかる通り、主人公は若き女性の狙撃兵。戦場を舞台とした女性スナイパーの物語だが、この小説の本質は彼女の精神的な成長を描くビルドゥングスロマンである。

◆僕は上智大学の外国語学部ロシア語学科を卒業した。B.A. (Bachelor of Arts, 学士)はForeign Study。ロシア政治・国際関係論は僕の専攻である。卒業は1987年だからソビエト連邦崩壊の4年前だ。しかし、在学当時からソビエト体制の矛盾が顕在化しており、崩壊は時間の問題と見られていた。『同志少女よ』も、そのあたりを余すところなく描いていて立派な「ソ連論」だ。当時からすれば、日本で、ソビエトを描いた、こんなにすごい小説(しかもエンターテイメント!)が登場するとは夢にも思わなかった。

◆ウクライナ危機が世界の市場を揺さぶっている。情勢は緊迫の度合いを日ごとに増し、いつ軍事侵攻があってもおかしくないと警戒が高まっている。一方、僕も含めた市場関係者は、有事は回避されるとのヨミ筋が多数派だろうと思う。モスクワでヘッジファンドを運営する知り合いは頻繁にキエフを訪れるがいたって平穏で戦火が迫る緊迫感などまったくないと言う。つまるところ、武力行使はロシアを含めた関係当事国、誰の利益にもならないからだ。

◆しかし、戦争というものは理屈で起こるものではないのは歴史が教えるところである。「プーチン氏は旧ソ連諸国全てをロシアの影響下に置きたいと考えているようだ。今年は自身が70歳の誕生日を迎え、ソ連創設100年の節目でもある。政治家として歴史にどう名を残すかを意識しての動きではないか」ウクライナの政治評論家ウォロディミル・フェセンコ氏はそう分析する。歴史に名を残したいとする指導者はプーチン大統領に限らない。それが厄介な問題である。

◆指導者は歴史に名を残したいと思うが、そうした意思を持たせるのは実は「歴史」のほうである。国家の歩みが歴史を作るが、国家の将来もまた過去の「歴史」に左右される。『同志少女よ』はソ連、ウクライナの歴史や地政学的な情報もたくさん出てくる。ウクライナ危機の最中、エンターテイメント小説で息抜きを兼ねた勉強もいいかもしれない。いや、勉強なんて抜きに、抜群に面白い一冊であること、受け合います。