昔(10年ほど前)、筆者はロシアから来られたお客様をおもてなししようと、高級焼肉店にお連れしたことがあります。しかしお客様は高級な和牛には目もくれず、主に豚肉を召し上がっていました。

背景には旧ソ連・ロシア特有の事情があります。旧ソ連・ロシアでは、肉牛は殆ど育てられておらず、牛肉の大半は乳牛由来のものでした。従って旧ソ連・ロシアでは一般に最も柔らかいとされるフィレステーキでさえ、「顎の訓練」と揶揄されるほどの代物でした。その結果、旧ソ連・ロシアでの伝統的な肉の序列は、①豚肉、②鶏肉、③牛肉、の順になっていました。筆者自身も駆け出しの頃、先輩から「ロシアの牛肉は肉質が硬いうえに処理技術が低いから、迷ったら鶏肉を食べたほうがいいよ。」と指導されたことを覚えています。そのような牛肉事情を反映し、旧ソ連・ロシアでは牛肉の調理方法も煮るか、スープを取るか、に限られていました。

しかし、足元ではだいぶ状況が変わってきたようです。2008年にはロシア全体の牛のうち、肉牛はわずか2%でした。現在ではこの割合は15.4%まで上昇しています。最も人気があるのは、アバディーン・アンガス種あるいは黒毛アンガス種と呼ばれる種類の肉牛です。このロシアでの牛肉ブームの火付け役は、ミラトルク(ブリャンスク州、飼育頭数50万頭)とザレーチナエ(ボロネジ州、飼育頭数6万頭)の2社です。このうちミラトルクはロシアのレストラン王アルカージ・ノビコフと組み、2015年5月からハンバーガーチェーン「#FARШ(発音はファルシュ)」を展開しています。#FARШの売りはミラトルクのロシア産霜降り肉を使ったハンバーガーで、これによりマクドナルドなど競合他社との差別化と高付加価値化(価格は250-580ルーブル、おおよそUS$4-10)を狙っています。また、ロシア産牛肉は輸入牛肉と異なり、飼育過程での薬品(抗生物質等)投与が少ない、と考えられていることもロシア産牛肉ブームを後押ししています。

このようなロシアにおける国産牛肉ブームは2010年頃から始まっていたようですが、これを後押ししたのは実はロシアによるクリミア半島併合です。具体的には、ロシアによるクリミア半島併合に対する西側の経済制裁への対抗措置として、ロシアが2014年に打ち出した西側からの食料品輸入制限措置です。その結果、それまでロシアで一定のシェアを占めていた米国・豪州産の牛肉が輸入できなくなったこと、更にロシアの通貨ルーブルの価値が半減し輸入品が高騰したこと、などがブームに一役買っているようです。

このように経済制裁が技術革新や経済革新につながったケースは、ハーバー・ボッシュ法(窒素からアンモニアを作る技術。第1次世界大戦時にイギリスに海上封鎖されたドイツで誕生。)、ファンタ(コーラの代替品。第2次世界大戦時にコーラ原液が輸入できなくなったドイツで誕生。)など色々あります。ある研究者は、経済制裁の効果を阻害する要因として、①被制裁国に対する支援(制裁実施側の抜け駆けなど)、②制裁実施国の負担の大きさ、③軍事衝突への畏れ、④国際法の制約、⑤被制裁国が他の経済ブロックに入る恐れ、⑥被制裁国の結束(ナショナリズム)、⑦対抗措置、を挙げていますが、経済制裁により皮肉にも技術革新・経済革新が起こり、それが経済制裁の本来の目的と逆の効果をもたらし得る点も見逃せません。経済制裁が効果を発揮するには、多くの条件が揃う必要があるのです。

現在、北朝鮮を巡って、経済制裁の議論が続いていますが、2017年9月5日、BRICSサミットの記者会見でロシアのプーチン大統領は「この場合、あらゆる制裁の実施は既に無益かつ非効率です。彼ら(北朝鮮)は、私が昨日仲間の1人に話したとおり、草を食べてでも、自身が安全だと感じない限り、この計画を放棄しないでしょう。」と述べました。要するにプーチン大統領は、「経済制裁が効果を発揮するには多くの条件が揃う必要がある。また仮に経済制裁が効果を発揮しても安全保障を経済の犠牲にすることは絶対出来ない(安全保障を犠牲にすれば自国は消滅し、経済どころでなくなる)。」と言っているように思われます。現在北朝鮮同様、自国の安全保障を確保すべく西側と対峙し経済制裁を受けているプーチン大統領のこの発言は、被経済制裁国の意見として、考えさせられるものがあります。

コラム執筆:榎本 裕洋/丸紅株式会社 丸紅経済研究所

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