昨年6月に政府が発表した成長戦略の中で、我が国の創業率・廃業率をそれぞれ倍増させ、米国のそれに近づけることが掲げられている。安倍首相が昨年9月に米国ニューヨーク証券取引所での演説で「日本を、アメリカのようにベンチャー精神のあふれる「起業大国」にしていきたい」と述べているが、これはシリコンバレーのような起業環境をイメージしているのであろう。ただし、「わが街にシリコンバレーを作る」という国や地方公共団体の掛け声はこれまでにも数多くみられる。

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中にはかなり昔からのプロジェクトもあることから、我が国にシリコンバレーを生むのはやはり難しいことがわかる。私は、実際にシリコンバレーで生活し、ベンチャー支援関連の仕事をした経験があるが、やはりシリコンバレー独特のエコシステムを日本に移植するのは不可能だと考えている。手前味噌になるが、海外で総合商社を育てる試みがなかなか成功しないのと同様、シリコンバレーも多様な支援体制や環境が複雑に絡みあって初めて成立しており、上っ面だけ真似しようとしてもうまく行かないだろう。

ベンチャー起業をサポートするシリコンバレーのエコシステムの1つに、日本には見られない産学連携の形がある:日本での産学連携の典型的な形は、大学発ベンチャーにつながる技術シーズを見出した研究室に、大企業が資金提供する(大学の技術シーズを買わせてもらう)というものであろう。しかしシリコンバレーでは、技術シーズを持つベンチャーの卵に、Stanford大学らの大学側が設備やノウハウを提供するという形の産学連携も行われている。ベンチャーの卵である研究者が技術シーズを見出すと、仲間集めや資金調達にむけ、まずはその有効性を実証する。そのためには実験設備等が必要になるが、シリコンバレーではそうした研究者に大学の設備を有償で貸し出す体制が整っている。創薬ベンチャーの例で言えば、私が現地でベンチャー支援に関わっていた2006年当時、ベンチャーの基礎研究に必要な設備一式を新調するには約5億円が必要だった。立ち上がったばかりのベンチャーが、設備投資だけでそれほどの金額を調達するのは、いくらシリコンバレーでも容易ではなかった。しかも、設備の稼働率は決して高くないのに、買った設備を収容するラボのスペース分の家賃も必要となる。そんな時、大学所有の設備を必要な時だけ有償でレンタルして気軽に実験に使うことができれば、その段階での無駄な資金需要が避けられる。

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日本でも大学等の提供するインキュベーション施設はあるが、あくまで施設という箱を安価に賃貸するものでしかない。日本での設備レンタルの数少ない例は、兵庫県にある理化学研究所のSPring-8という大型放射光施設(シンクロトロン。http://www.spring8.or.jp/ja/about_us/)であり、創薬に必要な高精度X線回折データを得たいベンチャー等に貸し出されているが、この設備は日本に1カ所しかない国家プロジェクトなのでそもそも別格と考えるべきだろう。

そうした中、東京大学大学院の薬学系研究科で、ワンストップ創薬共用ファシリティセンター(注1)を立上げ、同研究科内の機器の集約化(注2)と、機器の使用を介した学内外との連携を図る業務が動き出した。これは文部科学省の「先端研究基盤共用・プラットフォーム形成事業(注3)」の1拠点としての活動で、機器の共用利用を主な事業にするものである。「ワンストップ」という名称は、「ミネラルウォーターから人工衛星まで」の総合商社と同様、1カ所で何でも揃うという意味だそうだ。センターの対外窓口を担当する東准教授によれば「単なる測定センターではなく、機器の共用利用を介して産業界・他研究機関など学外との連携の敷居を下げ、いわば簡易的な共同研究を展開していきたいと考えている。」という。産業界といっても、大手製薬メーカー等であれば自前の研究機器を所有しているはずなので、いちばん恩恵を受けるのはベンチャーということになろう。最先端の機器を活用した薬剤探索・設計法、スクリーニング系の最適化等の問合せにもぜひ積極的に対応したいとのことなので、このセンターがシリコンバレーのエコシステムの典型である研究者同士のネットワーキングや相互の気づきの場にもなるのではないだろうか

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こうした研究機器の共同利用は、我が国の厳しい財政事情の下で科学技術予算を無駄なく利用し、研究開発のスピードを上げるためにも非常に有効である。文部科学省の科学研究費補助金(科研費)の1件当たりの平均予算が300万円弱(注4)のところ、一時期しか使わない研究機器を購入する研究費を得るために、有能な研究者が応募書類の作成に日夜時間を費やしているのが悲しい現実である。これでは、研究そのものに使える時間が減り、技術シーズ実証のタイミングが遅れることに加え、貴重な科学技術予算で購入された研究機器がやがて研究室の隅でほこりをかぶることになりかねない。米国では上のカリフォルニア大学の例のように、研究資金の一定割合で大学本部や研究機関の管理部に対して支給される間接経費を使って、共用の研究センターが運営されている。それであれば、最先端の機器が重複なく各地の研究機関に配備されるので、研究環境が飛躍的に改善されるうえ、浮いた研究費が人件費・消耗品・調査旅費等に回せるので研究成果の向上も期待できる。東京大学のワンストップ創薬共用ファシリティセンターの場合、機器購入の予算の元は現在は東京大学全学の共用予算とのことであったが、他の大学・研究機関の場合はなかなかそうした恵まれた環境にはないだろう。研究資金の間接経費が米国同様の使いかたをされることが重要だと思われる。

今回の東京大学の取組みが一般化すれば、限られた研究開発予算で今までよりも効率的に技術シーズが見出せる~実証できる可能性が高まり、また、ベンチャーの起業や設備投資用資金調達のタイミングを、より事業成功の蓋然性の高い時期に後ろ倒しすることも可能になる。事業の成功率が高まるということは、優秀な研究者に無駄に「失敗者」の烙印を押すことが避けられることも意味し、失敗からのやり直しが難しい日本社会においては予防的セーフティ・ネットとしても重要であろう。このように、我が国で大きな影響力を持つ東京大学で、シリコンバレー型の設備レンタルを通じた大学とベンチャーの新しい連携環境が整うことの意義は大きい。シリコンバレー型起業環境を日本で実現するためのハードルは多くて高いが、入り口部分の研究開発環境の改善が突破口となって、IPOにたどり着くベンチャーが増えて行くことに期待したい。

(注1)http://www.f.u-tokyo.ac.jp/~onestop/html/about/index.html
〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 TEL: 03-5841-0279 Fax: 03-5841-4879(注2)研究機関内の共同利用研究施設という点では理化学研究所・研究基盤センター(http://www.brain.riken.jp/jp/faculty/details/55)があるが、こちらは外部のベンチャー等による利用には開放していないようである。
(注3)http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/06/1336771.htm
(注4)文部科学省 平成23年度 科学研究費補助金公募要領等説明会資料「科学研究費補助金をめぐる最近の状況等について」

コラム執筆:チーフ・アナリスト 松原 弘行/丸紅株式会社 丸紅経済研究所
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