タイでは7月3日に下院総選挙の投開票が実施され、タクシン・シナワット元首相の妹のインラック・シナワット氏が率いるタイ貢献党が過半数の議席を獲得して圧勝しました。インラック氏は8月8日に正式に首相に就任し、同国初の女性首相が誕生しました。軍部クーデターにより5年前に政権を追われたタクシン元首相は、考え方の近いインラック氏を自身の「クローン」と例えていると伝えられており、インラック氏の首相就任はタクシン派の復権として注目を集めています。

近年のタイの政治は混迷しており、大まかに言えば、低所得者層を味方につけたタクシン派と中・高所得層や軍部の支持を得た反タクシン派が(時に死者を出す暴動を含む)激しい争いを繰り広げる構図になっています。多数を占める低所得者層が支持するタクシン派は選挙に強いものの、タクシン元首相は2006年に軍部によるクーデターで政権を追われ、汚職の問題等もあって禁錮2年の罪を言い渡されたため、現在は収監を逃れ国外に逃亡しています。

タクシン派の政党は、総選挙勝利後に選挙違反等の理由から解党を命じられ、弱体化させられた歴史もあり、今回の勝利によって安定した政権運営に移行できるのかどうか、不透明な面があります。インラック氏は近年のタイ政治の混迷に終止符を打ち、「国民和解」を進めることを主張していますが、反タクシン派が強い抵抗を示すタクシン氏の帰国をどう扱うかなど火種も残っており、難しい舵取りを迫られそうです。

タイの政治の混迷は、タイ経済にも影響を及ぼしています。タイは、これまで優良な投資先として海外からの資本を呼び込み、日本からも自動車メーカーなど多くの企業が投資をしてきましたが、近年の政治情勢不安などを背景に、2006年以降は以下の図のようにGDP比で見た直接投資が減少トレンドにあります。

▽ タイの対内直接投資
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タイ経済のもう1つの気がかりな点は、かつてのような高成長がみられなくなっている点です。1990年代、アジア通貨危機直前までのタイの実質GDP成長率は、平均で約9%でした。ところが、2000年代は、リーマン・ショック前までの平均で約5%にまで低下しています。ASEANの他の主な新興国についても見てみると、マレーシアでは同様の傾向がみられますが、インドネシアやベトナムではそれほど変化はなく、フィリピンはむしろこの間に平均成長率が高まっています。

タイとマレーシアの共通点は、ともに平均賃金が高く、1人当たりGDPは他の3国の2倍以上に達している点です。相対的に早く経済成長を実現したことで投資コスト面での魅力が薄れ、中国やインドのように人口が多いわけではなく(タイの人口は約6,600万人)、その伸びも止まりつつあり内需拡大も期待できないことから、ベトナムなどに投資が移りつつあるものとみられます。

高所得国にキャッチアップする過程で成長率が鈍化し、なかなか高所得国にはなれないという「中所得国の罠」の典型例と見る向きもあるようです。こうした動きに追い打ちをかけそうなのが、インラック氏が公約に掲げた最低賃金の大幅な引き上げ(4~9割)です。貧困層の底上げはインラック氏及びタイ貢献党にとって重要な政策ではありますが、タイの競争力が一段と低下しかねないと、懸念する声も多く聞かれています。

タイ経済は、かつてのような高成長ではないとはいえ、アジア通貨危機の反省に立った金融システムの強化などを背景に、ファンダメンタルズはしっかりしており、リーマン・ショック後も早々に安定した回復軌道に復帰しています。政治的・経済的な混乱を避けることができれば、アジア新興国の優等生とのポジションは維持できるものとみられるため、新首相の手腕が注目されます。

コラム執筆:
安藤 裕康/丸紅株式会社 丸紅経済研究所

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