昨日の日本ダービー、偶々ラジオで聞くことになりました。13万人以上の観衆の前で、TOKIOの長瀬智也が国歌斉唱。東京競馬場が一瞬にして曲の間だけ静まりかえったようで、国歌とはやはりそれなりの存在なのだと思わされました。

国歌と云うとアメリカではプロスポーツのゲームの前には歌われ、高揚感と愛国心を煽りますが、歌われる回数が多いので実に様々な歌い手、まさに老若男女、プロもアマもが歌い、出来の善し悪しもあるのでしょうが実に幅広いヴァージョンがあるように思われます。綺麗に歌う、ロックに歌う、その他モロモロ。
ビヨンセが口パクかと騒ぎになり、記者会見でいきなりド迫力の国歌を生声で歌ってレポーターたちを黙らせたのは有名ですが、緊張感もあると同時に色々な実験も許されるのでしょう。

日本ではこのような場面はあまりないので、失敗が許されません。坂本九さんが約50年前、人気絶頂期にプロボクシングの試合前の国歌斉唱ですべって人気がガタ落ちになったと聞きますが、その時も今も、状況はあまり変わっていないのでしょう。昨日の長瀬智也の歌い方も実に慎重だったように思われ、アメリカの様子を知る者としてはもう少し冒険してロックに歌ってもいいのにな、と思いましたが、それはあまりにもリスクが大きいのでしょう。昨日は皇太子殿下も観戦されていたことだし。

日本は国体としての日本、地理的領域としての日本、日本国籍を有する者としての日本人、日本の比較的伝統的な血筋の者としての日本人、その他モロモロの日本や日本人の概念が曖昧です。国歌だって正式に国歌として確認したのはたかだか15年前のことです。こういう曖昧さも、世界の中の日本を強く意識しなければいけない現代に於いては、もっとクリアにしていかねばならないのでしょうね。そんなことをちょっと思った昨日の国歌斉唱でした。