昨晩久しぶりに朔太郎の詩を読みました。私は萩原朔太郎が大好きで、高校を卒業するまでに全ての作品を読みました。当時は朔太郎も含めて日本の詩の中からアンソロジーを作ろうと思い、途中まで準備を進めていたのですが、やがて酒を飲んで遊んでばかりいる自堕落な大学生になってしまい、計画は途中で放棄してしまいました。数年経って思い直し、ノートブックを引きずり出してまた作業に取り掛かろうと思たのですが、かつては一つの貫徹したイメージや感触で選ばれた筈の詩が、既に所々統制が崩れているように見えてしまいました。かつては同質と読めたものが、部分的にも異質に読めるということは、即ち私の心や魂が既に部分的に変化してしまっていることを現していると考え、作業を再開することを断念しました。とても後悔しています。二度と帰ってこない青春時代の自分をもっともそのままの形で残し得たものは、写真とかではなく、あの未完のアンソロジーだったのではないかと思えるからです。