この週末は本当に忙しくて、あまりにも忙しいので、頭を切り替えようかと思い、お風呂に萩原朔太郎の文章を持ち込んで読みました。あー、なんと心地良いことか。するすると文章が頭に体に心に入って来て、とても読みやすいのです。萩原朔太郎の親友は室生犀星ですが、朔太郎曰く二人は全くあらゆることが正反対とのこと。私と朔太郎は、こんなことを書くと一方的ストーカーのようですが、色々なことに対する感じ方が似ているのです(と思っています)。文章を読んでいてあちこちでそう思うのですが、特に「我が意を得たり!」或いは「朔太郎の意が分かった!」と感じたのは、犀星の「小景異情―その二」についての解説です。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

この話は前にもつぶやきに書いたことがありますが、最後の「遠きみやこにかへらばや」の「みやこ」はどこか?これは中学受験などでも(少なくとも一時期)有名な問題で、私は小学生の時にこの問題を読み、みやこはふるさと、即ち金沢である、と答えました。その答えは不正解とされ、みやこは東京のことである、が正解と云われたのですが、私は納得がいきませんでした。その後たしか父が、「萩原朔太郎はお前と同じように書いている『らしい』」と教えてくれたのですが、あくまでも「らしい」でした。

私はこの「みやこはどこか」について、一生の間一度も感じ方が変わったことはなかったのですが、週末に読んでいた朔太郎の文章に克明にこれは金沢である主旨が書いてありました(出典、『日本』一九四二年、四月、五月号)。溜飲が下がるというか、本当にスッキリしました。「やっぱりそうですよね、朔太郎さん!」と心の中で叫びたくなりました。

本は、親友であり先生であり、時に悪友であり、本当に楽しい友です。因みにこの朔太郎の文章が収められている本は、先日本屋さんに行って、並んでいるのを見て初めて知ったのでした。本屋さんもまた行きたいと思います!