週末に参加したクリントン会議は、日本では殆ど報道されていないので(皆無でしょうか?)、簡単にレポートしておこうと思います。

政界、経済界、学者、NGOが参加する大型国際会議というと、やはりダボス会議が有名ですが、参加者は3000名程度です。これほど大きい国際会議はダボスしかなかった訳ですが、クリントン会議は1000名程度の参加者なので、唯一同規模のものとなります。最初の印象は、ダボスに比べてクリントン会議はとても「アメリカン」です。日本からは3名だけでしたが、それ以外の(アメリカ以外の)国からの参加者も少なく、ダボス会議に比べると国際分散比率がとても低く、極端にアメリカ比率が高いのが気になりました。会議の進行方法も、演説者・パネリストと、会場にいる参加者の間の相互議論は殆どなく、壇上からフロアに向けての一方向のメッセージの投げ掛けのようでした。ダボス会議も完全からはほど遠く、欧米・西・北・キリスト教中心で、予め用意されたアジェンダ以外の発言を積極的に受け付ける訳ではないのですが、それでもやはり国際的で民主的なイベントなのですが、クリントン会議はアメリカンで一方的な(英語で言うと paternalistic という言葉が私には一番ピンと来るのですが)空間でした。

しかし「我々だけが世界を助けられる大国なのだから、しっかりと責任を果たそう!」などと真顔でいう所が、イヤラシイと同時に、アメリカ人の可愛い所かも知れません。「地球温暖化が重大なテーマであり、我々は真剣だ!」と何度も何度も叫ぶのですが、これは学者が言うだけでなくてアメリカを代表する政治家が真顔で言うのですが、アメリカは京都議定書を批准していない唯一の大国であり、そもそも会場はセーターを着ないと居られないくらい寒くエアコンが効いていて、これは食べ過ぎで体が大きすぎるアメリカ人をクールダウンするためであり、その辺から直していくことが大切だと思えるのですが、そんなことを微塵も疑問に思わない単純さが、アメリカ人の功罪あい混ざる点です。

しかし、これは大変重要なことなのですが、クリントン会議は閉会までに実に1500億円相当のコミットメントを参加者から得ました。世界の温暖化、貧困、宗教対立、政権腐敗などの問題に取り組んでいくための資金として、総額1500億円を捻出したのです(目の前にある現金ではなく、これこれのために300億円集めます、などというものも含まれてはいますが)。ダボス会議は、話し合いを続けるだけで、このような実質を伴う結果は出て来ません。この辺りが、ヨーロッパの限界と、アメリカの可能性の違いなのでしょう。
クリントン会議は、アメリカ的で一方的であるが、実質も伴う国際会議として、賛否両論を巻き込みながら、今後発展していくと感じました。しかしダボスにしてもそうですが、日本の参加があまりにも限定的である点は、国際市民である我々として、今後真剣に取り組んでいくべき課題だと思います。