今、ニューヨークにいます。この後寝て、明日は某社主催のカンファレンスで、パネリストとして登壇する予定です。慣れない英語でのディスカッションは、正直かなり緊張します。今夜ちゃんと眠れるかどうか…笑。でも、ふと振り返ると、自分もずいぶん成長したなと思います。英語学習にはかなりの時間とお金をかけてきました。それでも「成長してる」と実感できない日が多くて、自分にがっかりすることもよくあります。でも実際には、通訳なしでIRも登壇も何とかこなしてきました。
大人になってからの語学習得は本当に時間がかかります。だから今も、新しい学習法があれば試してみる、そんなことを繰り返しています。AIの進化を目の当たりにする中で、「こんなふうに必死に言語を学ぶ意味はあるのか?」と考えることもあります。これは、言語を学んでいる多くの人が感じている問いではないでしょうか。
それでも私が英語を学び続けるのは、AIがまだ不十分だからでも、仕事で必要だからなだけでもなく、もっと根本的な理由があります。
(1)異なる文化の思考法や感情の持ち方を理解したい
言葉を通して、背景にある文化や感情を感じ取れるようになりたい。「感じ方」や「気遣い」といった微細なニュアンスは、翻訳では届かないものだと思っています。
(2)自分自身の可能性を拡張したい
英語で話す場に挑戦してきたことで、以前は届かなかった人・場所・情報にアクセスできるようになりました。確実に視野が広がり、それは自己変容とも言える体験です。
(3)人間らしさを大切にしたい
言葉を自分で選び、伝える努力をし、失敗しながらも通じ合うプロセス。それは非効率だけれど、とても人間的な営みだと思います。
そして最近、言葉そのものの面白さにも改めて気づかされました。たとえば、相対的な位置を表す「右・左・前・後」が存在せず、「東・西・南・北」のような絶対方位を使う言語があります。あるいは、数の概念がない言語、時間を「未来が後ろ、過去が前」と捉える言語、色の区別が「明るい/暗い」しかない言語もあるそうです。認知や文化、生活、世界観が異なることで、言語もまったく異なる姿になる。そんな多様性を知ると、学ぶことの価値を改めて感じます。
今回の米国出張では、尊敬している、憧れのような存在の方にお会いできました。私の中にあった、うまく言葉にできないもやもやを、その方は静かに耳を傾けて受け止めてくれました。そして(日本語でも)言葉にできなかった感情の奥を汲み取り、まるで私の心の輪郭をなぞるように、必要な言葉で返してくれたのです。言葉の限界を、まるで存在しなかったかのように越えて。言語を学ぶ意味を問い続けてきた自分が、言語を超えた理解の力に救われた。そんな逆説に感動しました。
さあ、明日は登壇本番。うまくいくかはわかりませんが、人間らしく頑張ろうと思います!