サンプラザ中野くんだー!

 周知の事実だが、師匠・忌野清志郎が亡くなった。大変なショックである。惜しいことである。大事な人であった。日本の音楽界にとって。俺にとって。
 俺が清志郎の歌を初めて聴いたのは高校2年の春。日比谷の野外音楽堂で、だ。俺は先輩に誘われて「カルメン・マキ&OZ」のコンサートに出かけた。4月の放課後のことだ。

 「時には母のない子のように」でブレークしたカルメン・マキさんはこのとき日本初の本格的女性ロックボーカリストとして再ブレークしていた。この「マキOZ」観たさに柏から千代田線に乗って日比谷に駆けつけたのである。野音は満員だった。そして熱気にあふれていた。

 マキOZは大物だった。だから前座がいた。それはいくつもいた。中には音楽家じゃない人もいた。それはコメディアン、ラビット関根であった。関根勤さんね。面白かった。

 さておき、清志郎率いるRCサクセションは前座のトリとして登場した。登場前にカルメン・マキさんが特別にMCをした。「私が今一番好きなボーカリスト」「最高のバンド、RCサクセション」と。

 しかしこの夜、清志郎師匠の声は俺の心に響かなかった。彼らのパフォーマンスに対する俺の感想は「???」であった。思えば俺は餓鬼だった。凄すぎる師匠の力を感じることができないほどにこわっぱな未熟な感性しか持っていなかったということだ。情けないけどー。

 それから2年後。俺はP-MODELのファンとなった。P-MODELはニューウェイブ・テクノないかすバンドだった。彼らのライブを観に一橋大学の学園祭に行った。対バンはRCサクセションだった。その時の師匠は最高だった。俺の感性に磨きがかかっていたからか、師匠が最高に輝いていたからなのか。とにかく俺はRCサクセションに、清志郎師匠にノックアウトされてしまったのだ。かっこよかったなー。

 それから何度もコンサートやイベントを観に行った。プチ「追っかけ」だった。RCサクセションはどんどん出世していった。武道館もやった。ライブハウスを席巻していたロックバンドとしては多分初めての出世街道をばく進した。ライブハウスバンドマンの星となったのだ。そして俺もライブハウスバンドマンになっていた。いつの間にか。

 数年後、何とかデビューにこぎ着けた。そしてRCサクセションと共演する日がやってきた。つづく。かも。

 と、日経平均がえらく下がった。今夜のアメリカがとても気になる。踏ん張れるのか世界経済。

サンプラザ中野くん
数々の爆発的ヒット曲を生み出してきた「爆風スランプ」で活躍。自身のホームページでも意外な側面を見ることができる。
http://web.mac.com/bakufu3/