プラザ合意後の米ドル暴落を止めた1987年末のG7協調
1985年9月、日米欧の先進国による財務大臣会合(G5)は、NYのプラザホテルに秘密裏に集まり、実質的な米ドル切り下げで合意した。有名な「プラザ合意」だが、これを受け、今度は一転して米ドル下落が止まらなくなった。また、この米ドル安は、米国の財政・経常の「双子赤字」などを背景とした結果であり、その是正なくして米ドル安終了はないとの見方が広がった。
こうした状況を受けて、1987年末、米議会はクリスマス休暇を返上して財政赤字削減策で合意、これを受けて当時G5からG7に拡大していた日米欧の先進国財務大臣会合は、米ドル買いの協調介入に出動し、米ドル安の阻止と米ドル高への反転を実現した。
1995年の「超円高」、米ドル安を反転させたのもG7協調
ただその米ドルは、1990年代に入り改めて急落リスクにさらされた。きっかけは、1993年に発足したクリントン政権による日米貿易不均衡是正のための円高誘導だった。それはやがて「ノーコントロールの米ドル安」に変わった。
1994年に入り、米ドル/円はついに戦後初めて100円割れの「超円高」となり、1995年には80円割れへ一段と米ドル安・円高が拡大するところとなった。当初の政策的な円高誘導から、やがて米利上げでも止まらない米ドル安と、米ドルのファンダメンタルズに対する悲観論も広がった結果のこの米ドル安に終止符を打ったのもG7協調だった。
2000年9月、今度はユーロ安を反転させたG7
もう1つ、G7協調が主要通貨の下落に終止符を打つきっかけとなった例は、2000年9月のユーロ買い協調介入だろう。1999年、米ドルに続く「第2の基軸通貨」として始まった欧州統一通貨のユーロは、その華々しい評価を尻目にほぼ一本調子の下落に向かった。そして2000年に入ると、1ユーロ=1米ドルという「パリティ(等価)」も割れて、いよいよユーロ安に歯止めがかからなくなった。
その理由は、ユーロ圏経済が景気後退と物価高の同時進行、「スタグフレーション」に陥り、欧州中央銀行(ECB)も景気対策と物価対策の板挟みとなり、金融政策で身動きがとれなくなったためとされた。ただそのユーロ安に歯止めをかけたのもG7協調だった。2000年9月、G7はユーロ安阻止の協調介入に出動、それがまさにユーロ安が反転するきっかけとなった。
絶望視された通貨安はなぜ反転したか=「エモーショナル」だった?
以上、1980年代後半以降の米ドル、ユーロといった主要通貨安阻止に、G7協調がどのように関わってきたかを見てきた。米ドル安、ユーロ安とも、渦中においては「基本的にはファンダメンタルズに沿った動きであり、止めるのは簡単ではない」とされるものだった。
にもかかわらず、これらの通貨安は止まり、通貨高に反転した。普通に考えて、ファンダメンタルズが短期間で変わることはないだろう。ではなぜ、「ファンダメンタルズを受けた通貨安」とされた動きが反転したのか。結果的に見ると、「ファンダメンタルズを受けた通貨安」とされた動きも、かなりエモーショナル(感情的)な面があったことから、G7協調という分かりやすいきっかけで反転したということだったのではないか。
初の円安阻止G7協調はあるのか?
これまで円安阻止での協調介入は、1998年6月の日米協調の例はあるが、G7協調が行われたことはない。逆に言えば、それだけ世界経済の問題になるほどの円安はなかったということだろう。
ただ最近の円暴落論の拡大は、そうした点での変化の兆しとも感じられる。円安は日本単独の金融・財政などの政策努力だけでは止められないレベルになっており、それが米国および世界経済に悪影響を与えかねないなら、過去の経験からするとやがて先進国協調、つまり日米およびG7協調の出番になるのではないか。
