昨日は年に一度の「人間ドックの日」でした。3年間の数字が並んでいましたが、身長も体重も体脂肪も胴回りも、驚くほど変化なし。数値だけ見れば、私はほぼ「同じ人間」のままです。ところが体感は違います。コロナ禍のころから老眼の兆候が出始め、目じりのシワが気になり、いつの間にか白髪を見つけては抜く生活になりました。数値は変わらないのに、確実に老いています。
社会をよく見渡してみると、これとよく似た感覚に気づくことがあります。
この10年で、私たちの生活は間違いなく便利になりました。スマホひとつで買い物も仕事も娯楽も完結し、生成AIは知的労働のあり方さえ変えつつあります。それでも、便利さと比例して幸福度が上がったか、と問われるとどうでしょうか。比較は増え、情報は過剰になり、常に何かに追われている感覚はむしろ強まっています。便利さは増しましたが、「余白」は減ったのではないでしょうか。まるで、体の数値は変わらないのに回復が遅くなっているのと同様に、機能の向上と実感のあいだに、ズレが広がっています。
人口減少についても、統計上は緩やかな変化に見えますが、日常ではある日突然、店が閉まり、サービスが縮小され、不便さとして現れます。変化は連続的でも、体感は非連続です。白髪もまた、一本ずつ増えているはずなのに、ある朝ふと「急に増えた」と感じるのでしょう。量の変化そのものには気づきにくく、日常に変化が現れてはじめて、「あれ」と気づきます。
人間ドックの数値が健康のすべてを語らないように、GDPや平均年収といった指標もまた社会の実感を映しきれません。本当に重要なのは、「変わっていないように見える数字」の裏で、「測られていない何か」がどう変わっているかなのでしょう。
変わらない数字は、ときに安心材料ではなく、見落としのサインなのかもしれませんね。そう考えると、人間ドックの結果にも少し緊張感が出てきます。来年のこの日までに、どんな「見えない変化」が積み重なるのか。少しだけ気にしながら過ごしてみようと思います。
